せかいとことば

世界は言葉によってつくられているし世界は絶えず言葉を生み出しているし。雑多な文章をつらつらと。

困難なほどに夏

 ぼん、っていうか、どん、っていうかそのどちらでもないようなぼんやりとした振動音、耳を澄ますと聞こえなくなってしまう、気のせいかと思って目をそらすとまた微かに聞こえてくる音。夏になるとそんな音がどこからともなく聞こえてくるものであって、大抵はそれは夏まつりの盆踊りの太鼓の音であったり、花火の音であったりする。そういった音というものは夏以外には発生することはなく、それも人びとが集う場所でしか発生しえない音である。そういった音のことを人は夏の風物詩と言うのであろう、わたしも概ねそれに同感である、かなりの偶然が重なり、この広い宇宙における地球という惑星のこの日本という国の小さな町に太鼓やら花火やらが鳴り響いているのだ、これを風流と呼ばずして何と呼べるだろう。ともかく夏というのはこのような文明による人口音と、けたたましいほどに脈絡なく鳴き続ける虫たちによってBGMが構成されている、冬などにはあまりこういったことは起きない。元来、騒ぐことが好きなわたしにとっては、騒がしい夏の音はとても好きだ、冬のしんしんとした感じも同じくらい好きだけどね。要は季節感が好きなのである。四季が好きなのである。四季がある日本に生まれてよかった、などと言うと途端にきな臭くなってしまうのでこのようなことはあまり言わない方がいい、四季がはっきりとしない地域にもそれなりの良さがあるのではないだろうか、日本以外だって四季がある国や地域はいくらでもあるだろう、そもそも果たして日本に本当に四季は存在するのか、だとか、あらゆる批判的精神をもってこのような言説に立ち向かっていかなくてはならないのである。しかしよく考えると四季が好き、だとか季節の移り変わりが好き、とかって結構アホなことなのかもしれない。つまりそれは、毎年必ず暑くなったり寒くなったりして、それに合わせて植物の様子や街の様子が変わっていくのがおもろい、色んな行事があって楽しい、その毎年のサイクルがハッピー、みたいな話であって、それって100万年とか100億年くらい前から続いてた自然現象に生物や人間社会が無理矢理適応していった結果なのであって、それを好きとか、楽しいとかって言うのはどうなんだろう。でもそういう適応するための努力って素晴らしいし、そういうことを踏まえて季節が好き、なんて言うのは正しいことなのかもしれない。たぶん。

 

 つまり、そういった意味で、暑い夏を頑張って楽しく乗り切ろうという意味において、太鼓のビートが響いていた。こだましていた。鳴り響いていた。それを家でキャッチしたわたしはそのぼんやりとした波動の強まる方へと自転車を漕いだ。公園が見えるたびに、ここだと思い、歓喜し安堵したが、音が強まるだけで肝心の発生源にはたどり着けなかった。行けども行けども鳴り響く太鼓のビート。強まる太鼓のビート。その盆踊り大会はどんどんとヒートアップして太鼓のビートも心なしか早まっているような気がして反響音が響き渡りもはやその会場がどこにあるのかまったく見当もつかなかった。車輪のついた動物の風船を転がして歩く子どもたちがいる。そんなものは夏まつり以外では手に入らないし、その帰り道にしか外に現れることはない。夏まつりは必ず行われている。りんご飴を持った子どももいる。まつりが行われていることは決定的だ、前から聞こえてきたと思えば後ろから聞こえる音、太鼓のビートが建物の壁に反響してその反響した音が別の建物にあたりその無限の連鎖反応がさらにわたしを惑わせてまるで合わせ鏡の中にいるような気持ちになって逆にそれも悪くないのではないかなどと思っているうちにまつりは終わってしまった。
 太鼓のビートがまだ聞こえてくるような気がする。