せかいとことば

世界は言葉によってつくられているし世界は絶えず言葉を生み出しているし。雑多な文章をつらつらと。

口ずさむことでコントロールする混沌を楽しむ

 音楽と煙、居眠りしてたら気づけばこんな時間、視姦されすぎて街を歩くのも困難でこんなんで毎日はいいのかって言い聞かせても稼いでもなくなるお金の価値を疑う、ところから連なる言葉は生まれる、打たれる、洪水のような雨と香水の香り、温水になっていく尻の穴用シャワー、シャワー通りいつも通りビール片手にベンチ座り眺める大通公園からの人の流れの中で奏でていくのは言葉でも音楽でもない何か、はにかむ街を歩く人々もいまは天使のように見えて電子レンジで温めて変える遺伝子配列、イメージは止まらないから排泄、するように言葉を吐き出す。
  吐き出す、マイナスからプラスに変えるように掻き出す、電極に挟まれた脳内の猛毒は消毒、できずに怒りでも悲しみでもない孤独、と一言で言ってしまえばそれはあまりにも脆く、すごろくみたいな人生で行ったり来たりを繰り返しまた振り出しに戻る、その一方で記号で世界とわかりあえるというのは甚だ盲目、毎日の日々のすべてが分岐点でスイッチアップダウンを繰り返して飛び出した列車、レールからはみ出て常軌を逸した蒸気機関車トーマスと正気の沙汰でないナイトフィーバーは止まらない。
 勝ち組、負け組、を気にするあまりに果汁グミの美味しさも忘れてビレバンで買ったハリボーで組み立てられた張りぼての高層ビル群をすり抜け妄想昼と夜の間の集中豪雨、のなかで体を洗うスコールは凍る、そして凍結した路面の前に人は無力になり響き渡る除雪車の音は怪獣、白夜に唸りだすゴジラ五時だ、気づけばいつも朝と夜が入り乱れる時間で怠惰な日々のなかで跨いだ空間の亀裂を埋めるように溢れて。

惑星として存在している

 もうだめだ、もうだめだっていったい何回考えては何回夜になって朝がきてまた夜になってだめになってを繰り返しただろう。そんなことを繰り返していてもまた同じ「だめ」は現れては消えてを繰り返していく。それは何にも進歩もない、どこまで行っても平行線上の「だめ」なのだった。
 何もない無音の部屋が悲しくって音楽をかけるとわたしの「だめ」が浮き彫りになったような気がして止めた。部屋の明かりを消したり、つけたりしてみた。それでも何が変わるわけでもなく、否応なしに空は明るくなったり暗くなったりを繰り返した。同じことを言ったり、書いたり、歌ったり、そういうことをしてなんとかいまを繋ぎ止めておくこと。そうしてこの途方も無い平行線を受け入れること。
 気づくと朝が来ているように、わたしの視界もぱあっと明るくなるかもしれない。それは雪解けの北国のように、生命の死んでしまったところにいつしか緑が生まれて、木々は新たな芽をつける、虫たちは踊り出す。きっとそんな日が来るのだから。そして往々にして、またあたりは暗くなり、長い冬は来てしまうのだけれど。ああ、そうなんだ、そういう風にできているのだ。完全に都合の良い比喩などは存在しない。そんなことはわかっていても、結局はそういうものなのだろうなあと思うと少しは気分が楽になったりして。

 孫が欲しいと思う。孫。孫というものは欲しいと思ってできるものではない。まずは大前提として、子をつくことが必要である。そして、その子がさらに子をつくらなくてはならない。そのためには自分の子がある程度の経済的な余裕や、豊かな人間性のようなものを有することが必要となる。自分が子をつくるということすら難しいのに、さらにその子にさえその難しさを背負わせるということはもはや天文学的に困難なことである。時間も限られている。
 しかし孫は可愛いのだろう。孫を持ったことはないので詳しくはわからないのだけれど、聞く話によると、さぞかし可愛いようではある。なので、わたしも孫が欲しい。孫が欲しいと思うわたしは同時に、孫である。すべての人間は、誰かしらの孫であった。今も孫であり続けているかもしれない。それは誠に恐るべき事実である。
 そんな天文学的困難の象徴としてのわたし。宇宙が誕生して重力の歪みが発生しそこに原子が集まり自己重力収縮をし星ができて惑星ができてわたしが生まれる。この天文学的な奇跡を無駄にしてなるまい、などと模範的なことを思ったりもするけど、逆にそれを無駄にしてしまうのも面白いのかもしれない。あは。

眠る、そして歩く

 人間ってそもそも欠陥を抱えた生き物なわけ、一日のおよそ三分の一を睡眠に費やさないといけない。人生のおよそ三分の一を何もしていない時間に費やさなければいけない。機械の世界、コンピュータの世界へ行ったら笑われてしまうだろう。そもそもそんな性質を、宿命を生まれながらに誰しもが持っているわけであって、それなのに人生に効率を求めようだなんておかしな話。残りの三分の二は何かをしている時間なのか、意味のある時間なのかというとそれも疑わしい。おおよそ人生のなかで意味のある時間というのはほんの一握り、ほんのちょびっとなわけであって、その瞬間を構成するために莫大な意味のない時間があるのだなあ。そんなことを思うとこうした比較的意味のない時間さえも愛しく思えたり思えなかったりして煙草を吸ったりして気づくと空は明るくなったりしてわたしは眠りについたり、つかなかったり。

 人間は生まれてから今までに見たすべての景色を脳内に記憶している、ということをどこかで聞いたことがある。しかしそのすべてを思い出すことができないのは、記憶を知覚する部位がうまく結びついていないからだ、と。それには幾分か科学的な根拠があるのかもしれないけれど、きっとそうあって欲しいなあと思った人がうまい理屈をつけてそういうことにしたのだろう。だって、これまで見た景色を、出来事を本当に忘れてしまうことがあるのだとしたら、それは悲しいこと。なかったことと同じことになってしまう。だからこそ記憶には残っている、残っているけどうまく思い出すことができないこともあるという説明をつけたのだ。わたしの頭の中には今までに出会ったすべての出来事が記録されている。そんな記憶たちは、わたしが眠っている間に整理され、デフラグされている。一生思い出すことのないような記憶もずっと、片隅に記録されているのだ。その莫大な意味のない記憶たちは、ほんのちょびっとの意味のある大切な瞬間を創り出すために準備をしていると思うとこの布団の中における無駄な時間さえもが意味のある行為のようにも思えたりしてね。

わたしは死なない

「わたしは死なない」って書こう、書き初め、大きく大きく書こう、今年一年の目標はそれ、達成できたら大きなパーティをしよう、来年の師走にさ、みんなを呼んで、みんなって誰、って話ではあるけれどとにかくみんなを呼んで、大きなパーティをする、いつぶりかなあ、大きなパーティなんてね、小学生のころに一度だけ誕生日パーティというものをしたことがあったのだけど、あれはいったい誰がやろうと言い出したのだろう、和室に大きなチョコレートケーキとファンタグレープを用意して、パーティをしたの、自分が祝われているということはすこし恥ずかしい感じもしたけれどそんなものはパーティの本質ではないのよね、何かと理由をつけてみんなで集まったらいいじゃない、その理由がわたしであってもね、そう、だから来年の師走には大きなパーティをするの、わたしの部屋で、たくさんの人を呼んで、すきな音楽をかけて、好きなお料理をつくって、パーティをするの、わたしの目標が見事に達成されたあかつきにパーティを、大きなパーティをするの、きっとうまくいく、パーティはきっとうまくいくわ、だからわたしはそのために書き初めをする、書き初めなんていつぶりだろう、中学生のころによく書かされていた、やたらと明るい標語、輝かしい未来、だの平和な世界、だの、みんなの税金がどうたらということも書かされた、しかしそんなものはもう関係ないのだ、そんなものからは自由なんだ、わたしは、わたしの書きたいことを書く、大きな大きな紙に大きな字で書く。わたしは死なない。

「妄想赤ちゃん」第一回

 家に帰ると赤ちゃんがいた。正確に言うと、家に帰ってジャージに着替えてソファに座り、ぼーっと部屋を眺めていると、その存在に気がついたのだった。それは赤ちゃんだった。小さくて、頬はぷくっとオレンジ色に膨れた、赤ちゃん。いつからここにいたのか、それともわたしのあとをつけてきたのか。それすらもわからない、今日は疲れてぼんやりとしていたから。しかしついてきたというのは変な話だ、この子は歩くことはできないだろう。だとすると、ここにいた。果たしていつから。どうして。目をこすってみた。それでも赤ちゃんは堂々とそこに寝そべっていたのだった。

「この子はきっとわたしの子なのだ」
 直感的に、そう感じた。不細工な赤ちゃんだった。これもわたしに似ている。いやしかし、そういうことではなくって、それはわたしの、わたしの身体の一部であった。そうとしか、それ以外には考えられなかった。そういうことを直感的に、無意識のなかで感じてしまった。
 赤ちゃんはとてもよく動く。小さなソファベッドに登ろうとして、手を伸ばしていた。そこには段差がある、その段差をきみは飛び越えることはできない。それをまるで知らないかのようにきみは、手を伸ばす。手を叩きつける。何度も。
 わたしは赤ちゃんに手を伸ばした。すこし冷たく感じた。大丈夫、と声をかけたが返事はない。当たり前だ。寒がっている赤ちゃんにはどうしたらいいのだろう、とりあえず部屋の暖房をつける。久しぶりの暖房はすこし効きが悪くなっていた気がした。赤ちゃんは何を食べるのだろう。ミルクを温めてあげたらよいのだろうか、とりあえずコンビニに買い物に行こう。しかし部屋を空けるのは心配だ、赤ちゃんがどうにかなってしまったらどうしよう。赤ちゃん。わたしの赤ちゃんだ。

 赤ちゃん。これは、わたしの一部であって、この空間でいま息をしているのはきみとわたしだけ。きみと鼓動はわたしと同期して、ひとつになる。わたしの瞳に映るきみの瞳にわたしの瞳は映る。わたしはあなたをかならず守ってみせる。あなたがこの世界に現れて、現れたことを疑うこともせず、世界を愛することができるように、わたしはあなたに愛をささげる。惜しみない愛を、こぼれるくらいの愛を。あなたが大きくなったころ、この世界がどうなっているか、わからない、明日のことだってわからないのだ。けれどもわたしはあなたを大切にしようと思った。この世界がどうなろうと、これは変わらないことのような気がした。赤ちゃん。赤ちゃんを眺めているとそんな気持ちが目まぐるしく現れてわたしの胸と心と頭がどうにかなってしまいそうでわたしの抱え切れる以上の複雑な感情が体内を血流として流れているのを感じてそれでもきみはそんなことはなんにもわからないだろう、わからなくていいのだ。だってきみはわたしの赤ちゃんだから。きみはただこうして、寝そべって、地を這って、よく泣いて、わたしを見つめてくれたらいい。いいのだから。(続く)