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せかいとことば

世界は言葉によってつくられているし世界は絶えず言葉を生み出しているし。雑多な文章をつらつらと。

ぼんやりと思い出す、忘れる

 さっきから隣に座っている人が頭を揺らしたり手を動かしたりしてリズムをとっていてそれはわたしの聞いている音楽と同期していて、ああ隣の人も同じ音楽を聴いている、とぼうっと考えていたけれどそんなことはない。ないはずだけれどそういったことが起きることもあるのだろうなあとぼんやりと考えている自分がいた。
 彼はイヤホンをつけていたので、わたしのiPodから音楽が漏れていてそれを聴いているということはないはずだし、そもそもスピーカーはついていないし。だとしたらBluetoothなどで同期しているのかな、合わせた覚えはないけど勝手にそんなことができたりするのだろうか、まあ一緒に聴けるならどうでもいいや、みたいなことを思っていたら見覚えのある風景。目的の駅に着いた。
 駅の2番出口はいつもものすごく強い風が吹き込んでいて、この風はいったいどこへ行くのだろうと思う。その分がどこかから外へ出て行かなくてはおかしい。インプットとアウトプット。そんなことを思いながら震えていると青の点滅だった。
 駆け足で急いで渡り切った。息が切れて思ったのは、急ぐことによって信号を渡ることのできた自分と、急がずに次の青信号をゆっくりと待ち、平常の心拍数のままで帰ることを天秤にかけるとどちらが勝るのだろうということであった。そもそも、とくに急いではいないし、なぜ人は急いでしまうのだろう。人はなぜ。と話を広げるまでもなく、早く帰りたいという気持ちが無意識にわたしを急がせているのだろうということに気付いた。早く帰りたい、というか早く寝たい。その一心である。

 最近は、早く帰って、美味しいものを食べて、たくさん寝る。それだけが頭の中を支配している。定食屋でお腹いっぱいになって、8時間でも寝ることができた日には本当に幸せなのだ。心の底から幸せなのだ。でも、なんていうかそんなんでいいの、っていう気持ちはつねに身体のどこかにあって、でも混じりっけなしに100パーセント幸せなのだからいいじゃん、と思う心も存在していて、どうしたもんかなあと思うのだけれどこの辺りで答えが出なくなってしまうと眠くなってしまう。明日のためにも寝なくちゃと思ってしまう。まいった。まいりながらも、レコードに針を落とした。古臭いノイズのあとにスピーカーが揺れる。
 レコード屋のおじさんは優しかった。1時間かけてゆっくりと選び抜いた7枚のレコード、奥の安売りコーナーから選んだのだけれど、値札がないものもすべて200円でいいよと言ってくれた。お釣りがないんだけど、と言われて財布を見ると、小銭はほとんど入っていなかった。自分も細かいのがないと言うと、すこし悩んで、じゃあ1000円でいいよと言ってくれた。得した、けれどなんか申し訳なくって、店を出たあとに近くの自販機でジュースでも買って崩して、400円をまた持って行こうかと悩んだけどそれは面倒だったのでやめた。得した。
 レコードのジャケットの裏面をよく見ると、だいたいは何かが書き込まれていた。何かの日付らしきものや、サインなどがある。サインはきっと持ち主の名前だろう。こんな投げ売りされたものに演奏者のサインがあるはずがない。
 '78 jan.16 Takeuchi と書かれたバルトークのピアノコンチェルトのレコードを聞く。竹内さん。あなたはいまどこで何をしていますか。わたしのこの声は届いていますか。わたしは、疲れて家に帰るとあなたが昔、擦切れるほどたくさん聴いたそれをまた大事に聴いています。ねえ、それってすごく素敵なことだと思わない? 竹内さん。わたしの聴いている音楽が、なんらかの力によって同期して、あなたの耳にも届いているといいなと思います。イヤホンを半分こするように、わたしと竹内さんは同じ音楽を聴いているのだと思います。わたしが疲れているように、竹内さんも疲れているのだと思います。でも、わたしの方が元気なときは、あなたに少しだけ、力を分けてあげることができます。だから、あなたの方が元気なときは、わたしにも少しだけ、分けてほしいのです。それって、わがままでしょうか。そのくらいのわがままなら、いいよね。だからわたしは、レコードを裏返して眠りにつきます。あなたからのおたよりをずっとずっと待っています。それでは。 '16 feb.4