せかいとことば

世界は言葉によってつくられているし世界は絶えず言葉を生み出しているし。雑多な文章をつらつらと。

「世界のしくみがどうたらこうたら」

 肌寒い日だった。肌寒い街で太鼓を叩いていた。寒いので歩きながら叩いていた。客引きのおねえさんに、頑張ってと言われて、お互い寒いねと励ましあったりした。客引きのおにいさんからは、すごいね、かっこいいね、頑張ってねと意味不明の賞賛をうけたりした。
 べろんべろんになった女の人が私も叩きたいと言って寄ってきた。連れの男の人が笑いながら引き止めている。なかなかうまいでしょと言いながら太鼓を闇雲にたたく女の人。うまく響かせるためには、手首のスナップを効かせなくてはならないのだが、そんなことはどうでもいい。笑いながら、男の人に腕を引かれてどこかへ消えて行った。
 そんなことですこし救われたりするのだ。いったい何が、どうわたしの何を救っているのだろうと、不思議な気持ちになったりした。

 しばらく歩いて、適当な場所に腰を降ろした。近くのコンビニでもらってきた、ホットペッパーを尻にひいて。だいたいの都市には石を投げたら当たるくらいにはコンビニエンスストアがあって、そこではトイレも水もタダだし、ホットペッパーだってもらえるし、さらにお金を出せばいろいろなものが買える。これはすごいことだなあと思ったり、思わなかったり。
 太鼓を叩いていても、とくに立ち止まって聞いてくれる人というのは、そうそういない。そもそも、ここ日本においてはそういうものを求めてはいけない。家では演奏できない、だから路上で演る、そういうスタンスが好ましい。ギターの弾き語りとか、相当うまいミュージシャンとかだったら、話は別だけれど。
 しかし、何も反応がないというわけではない。通りかかって笑ってこっちを見てくれる人、手でリズムを刻む人、手拍子をしてくれる人。
 和服を着た初老の女性がいいわねえと話しかけてきた。私の友人がプロの打楽器奏者なのよ。どこかの高級な飲み屋のママさんなのだろうか、雰囲気のある女性だった。頑張ってねと言われて消えていく彼女。頑張ってねという言葉はあまり好きではないけれど、悪い気はしない。なぜだろう。寒いからなのだろう。

 そんなこんなで、しばらく叩いているとおまわりさんがやってきた。あらら。苦情来ちゃったんですよね、と申し訳なさそうに言うおまわりさん。わたしも嫌な気分はせず、今日はこのくらいにしときましょうと言う彼に、素直に従った。煙草に火をつけて、吸い終わったころに、立ち上がった。荷物をまとめた。

 すこしだけ歩いた。近くではマイクを使い、弾き語りをしている人がいた。どこかで聞いたことのある歌だった。カバーなのだろう。きっとこういうものは、なかなか不快に思われたりすることはないのだろうなあと、思った。
 街中にいる路上ミュージシャンの、ほとんどがギターの弾き語りなのはどうしてなのだろう。もっと色々な楽器を弾く人がいてもいいと思うのだけれど。敷居が低いからかな、それともゆずの影響かしら。鍵盤ハーモニカとか、リコーダーとか、そういうものなら誰でも演奏できるから、みんな、そういうものを路上で演奏したらいいのにね。お金を使わなくても、楽しめることはたくさんあるのにね。なんて思ってもこういうことは、あまり人には言わない方がいいのだろう。

 街が好きなのだなあと思った。都会には、異質なものをなんでも、受け入れる度量がある。余裕がある。それは、人びとの無関心ということもあるのだけれど、かと言ってそれほど排除もしない。受け入れるというより、許容している。そんな感じが心地良くって、ここにいれば生きていられるのだろうなと思うのであった。
 また、その辺に腰をおろして太鼓を叩いた。風は冷たくなっていたけれど、街はまだまだ眠らないみたいだった。