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せかいとことば

世界は言葉によってつくられているし世界は絶えず言葉を生み出しているし。雑多な文章をつらつらと。

読書感想文と、ある友達についてのはなし

むかし、読書感想文というものがあった。むかしと言ってもわたしが小中学生だったころの話で、今も相変わらずあるのだろう、たぶん。読書感想文というのは全然好きじゃなかった。
まず、指定図書に読みたいと思えるようなものが一つもなかった。もし、なんでも好きな本を選んでいいよと言われたら小学生のわたしは喜々として学研の図鑑「宇宙」についての感想文を書いた気がする。
そして、読書感想文には独自のルールがあった。何か本を読んだら、みんながみんなその本をやれ面白かっただのやれ感動しただのと書く。そこでは批判的精神は求められず、むしろ余計なものとされてしまう。
「感想」なんだからなんだっていいじゃねぇか、と妙に斜に構えていた当時のわたしは、なんとなくこういう気持ち悪さを感じていたのだと思う、子どもながらに。

しかし夏休みには必ず、読書感想文という課題が課されるわけであって、これを出さないわけにはいかなかった。小学生のうちは仕方なく指定の本を購入し少しは読んでいたが、中学生にもなると本すら読まなくなってしまった。だいたいのあらすじだけをインターネットなどで読み、内容を想像して、読書感想文を書き上げた。読書をしていないので、ただの妄想文である。
たぶん今読んだら相当にひどいことが書かれていたと思うのだが、教員も一つ一つ丁寧に読んだりはしていなかったのだろう。毎年問題なく提出できていた。

あるとき、別の中学校に通っていた友人に読書感想文を写させて欲しいと頼まれた。同じ学校じゃないからばれやしない、と。わたしは、これは読書感想文じゃなくて妄想文だよ、ということを説明したのだけど、友人はそれでもいいと言って、せかせかとわたしの文章を写し始めた。
そのときわたしは、そんなことをするくらいだったら、自分で妄想文を書いた方が早いのになと、とても不思議に思っていた。でもしかし、友人は「写す」という選択をとった。

思えば読書感想文を嫌っていた人は、わたしやその友人の他にもたくさんいた。そして彼らは本を読むことも、感想をまとめて文章に書くことも、嫌っていたように思う。その点わたしは好きでもない本を読むことは苦痛ではあったが、文章を書くということは好きだったので、あのような妄想文を書くことは非常に楽であったし、楽しくもあった。

ここまで書いたところで、このとりとめもない話にオチのようなものをつけられる自信はまったくない。ないのだけれど、あえて言うならば。
本を読んだり、文章を書くことに対して苦痛を感じないということは、とてもめぐまれたことなのだと思う。小さいうちに、これらに対して抵抗感をもってしまった子どもというのは、それを長いこと引きずってしまうような気がする。とてももったいないことだ。
だから、子どもには読むこと、書くことの本当の楽しさが伝わるような、そんな教育がなされるべきなのだ。それがいったいどのようなものであるのかはわからないけど、少なくともそれは、夏休みの課題の読書感想文ではないはずだ。そんな風に思う。

ところで中学生のとき、その友人と映画を見に行くことがあった。スターウォーズを見たかったのだけれと、日本語吹き替え版がなかったので、仕方がなく字幕版を見た。その友人は字幕の漢字がほとんど読めなかったようで、わたしに読み上げてくれと言ってきた。
なんでわたしがそんなことをしないといけないのだ、ていうかここは映画館なのでそんなことをしていたら周りの人に怒られる、とかそんなことを思いながらも友人の耳元で字幕を読み上げてあげた。そうしてしばらくするとわたしたちはなんだか馬鹿らしくなって、途中で退席した。映画館を出たあと何をしたかは覚えていないけど、なかなか楽しい一日だったような気がする。たぶん。

最後に、その友人はいまでもわたしの親友であることを、付け加えておく。