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せかいとことば

世界は言葉によってつくられているし世界は絶えず言葉を生み出しているし。雑多な文章をつらつらと。

創作について

この間、久しぶりに映画を見てきた。「舟を編む」という映画で、三浦しをんの同名小説の映画化。
ここでいう「舟」とは、辞書のことで、言葉の大海を渡る舟を表している。登場人物やストーリー展開もさることながら、辞書作りという、我々一般人には到底見当もつかないような主題が見事に描かれており、非常に面白かった。とても見応えのある一作である。

映画を観た後、ある人が以前、こんなようなことを言っていたことをふいに思い出した。
「人間、週に一度くらいは物語を吸収しないとあかん」
自分が最後に物語らしい物語を吸収したのはいつだろうな、としばらく考えていた。それは定かではなかった。断片的なそれは往々にして吸収はしていたのだろう、たぶん。しかしそのこじんまりとした、奥ゆかしさのある映画館ですてきな映画を見て、なんだが久しぶりに物語を吸収できたような気がして。

物語のもつ強みっていうのはいろいろあると思うのだけど、意味の幅が大きいということ。これが大きいんじゃないかなぁと思うの。そして、自分をその中へ容易に投影したり、比べられたりできること。そうしているうちに、物語を通して知らず知らずのうちに助けられていたり、救われたりする。

物語を吸収するというのは、そんな意味でとても大切なことだと思うのだ。でも逆に、物語を吐き出すということになると急に敷居が高くなる。
物語でしか感じ取ることのできないような意味、が存在するのと同じように、物語としてしか、表現できない気持ちもあるのだと思う。気持ちを表現する、かたちに表すということ。その一つの方法として、物語としてかたちにする、ということがもっともっと、あっても良いのではないかなということを考えるのである。

これは別に物語には限らなくって、一般に創作活動全般にも言えることかもしれない。音楽や、美術や、小説、ダンス、演劇。
何かを表現するときに、そのかたちというのはいくらだって考えられる。しかしそうした創作はどこか、それなりの技術を持った人のみが許される特権的なものとされているような気がする。アマチュアが、へったくそなピアノ曲を作って、それを誰かにプレゼントする。そんなのがもっとあったっていいじゃないか。恥ずべきことなんて何もないし、それを小馬鹿にするような人は、なんてつまらない人なんだろう。

思い出せば幼稚園のころ。わたしたちはよく大きな絵を描いていた。クレヨンをこれでもかと言うくらいにつかって、全身をぶつけた、ぐちゃぐちゃな絵を。
わたしたちはそんな絵を、いつから描かなくなったのだろう。それとも、描けなくなってしまったのだろう。なんてことを考えたりした。