せかいとことば

世界は言葉によってつくられているし世界は絶えず言葉を生み出しているし。雑多な文章をつらつらと。

訪問販売のまんじゅうと人形

会社のオフィスに突然、クーラーボックスを持った人がまんじゅうのようなものを売りに来た。そんな、このご時世に突然まんじゅうを、それも普通のオフィスに売りに来られて、おっ、ちょうどまんじゅうが食べたかった、一つもらおうか、なんて人はいないだろうに。ましてやちょっと足を伸ばせばすぐコンビニで好きなまんじゅうを選べるこの時代に、だ。
残念だけどいらないと答えると、売り子の彼は嫌な顔一つせずに帰って行った。少し時間が経った後に考えてみると、彼はきっと上司からまんじゅうを売ることを命じられていて、ノルマだってあったのだろう、もしかしたらフリーランスかもしれないけれど、それでも一日のノルマがあるのは同じである。まんじゅうはナマモノだ。
もしかしたら買ってくれるかもしれないという淡い期待を胸に秘めつつわざわざここまで来てくれた、それでも結局だめだった、でも諦めずに次の場所へと向かう。そんな彼を思うと一つくらい買ってあげてもよかったかもなぁと少し思ったのだった、五分ほどたったあとに走って追いかけて買うほどの気持ちはなかったけどね。

 

それで、思い出した。わたしが小学生か中学生だったころ、父親がニヤニヤとした顔つきで変な人形を持って仕事から帰ってきた。
「変な外人が仕事場に来て買ってくれって言ってきたから買ってやった、やる」
そう言ってその人形を渡された、原色のカラーリングをした鳥にもタヌキにも見えるその人形はお腹を押すと奇声のような電子音を発した。奇妙な人形だったが、どこか愛嬌がありわたしはそれを気に入っていた。そしてそんな人形を買ってしまう父親にも好感をもった。
外国人の売り子の彼は、きっと不慣れな日本にきてあまり仕事もなく、やっとの思いで見つけた仕事では売れそうもない大量の人形を持たされ、一日中売り歩かされた。そんな奇妙な人形を買う人は少なく、大抵は門前払いされてしまう、そんなときに、わたしの父親が気前よく買ってくれて、本当に嬉しかったことだろう。
それは、彼に対する同情からではなくて、単純に「よくわからんけど面白いから買うか」というものだった気がする。父親の性格からして。そういう何気ないことでも、誰かを救っていることもあるのだなぁと、そんな素敵な出来事を不意に思い出したのであった。もしかしたらその外国人の彼、話し上手で売りまくってたのかもしれないけど。