せかいとことば

世界は言葉によってつくられているし世界は絶えず言葉を生み出しているし。雑多な文章をつらつらと。

惑星として存在している

 もうだめだ、もうだめだっていったい何回考えては何回夜になって朝がきてまた夜になってだめになってを繰り返しただろう。そんなことを繰り返していてもまた同じ「だめ」は現れては消えてを繰り返していく。それは何にも進歩もない、どこまで行っても平行線上の「だめ」なのだった。
 何もない無音の部屋が悲しくって音楽をかけるとわたしの「だめ」が浮き彫りになったような気がして止めた。部屋の明かりを消したり、つけたりしてみた。それでも何が変わるわけでもなく、否応なしに空は明るくなったり暗くなったりを繰り返した。同じことを言ったり、書いたり、歌ったり、そういうことをしてなんとかいまを繋ぎ止めておくこと。そうしてこの途方も無い平行線を受け入れること。
 気づくと朝が来ているように、わたしの視界もぱあっと明るくなるかもしれない。それは雪解けの北国のように、生命の死んでしまったところにいつしか緑が生まれて、木々は新たな芽をつける、虫たちは踊り出す。きっとそんな日が来るのだから。そして往々にして、またあたりは暗くなり、長い冬は来てしまうのだけれど。ああ、そうなんだ、そういう風にできているのだ。完全に都合の良い比喩などは存在しない。そんなことはわかっていても、結局はそういうものなのだろうなあと思うと少しは気分が楽になったりして。

 孫が欲しいと思う。孫。孫というものは欲しいと思ってできるものではない。まずは大前提として、子をつくことが必要である。そして、その子がさらに子をつくらなくてはならない。そのためには自分の子がある程度の経済的な余裕や、豊かな人間性のようなものを有することが必要となる。自分が子をつくるということすら難しいのに、さらにその子にさえその難しさを背負わせるということはもはや天文学的に困難なことである。時間も限られている。
 しかし孫は可愛いのだろう。孫を持ったことはないので詳しくはわからないのだけれど、聞く話によると、さぞかし可愛いようではある。なので、わたしも孫が欲しい。孫が欲しいと思うわたしは同時に、孫である。すべての人間は、誰かしらの孫であった。今も孫であり続けているかもしれない。それは誠に恐るべき事実である。
 そんな天文学的困難の象徴としてのわたし。宇宙が誕生して重力の歪みが発生しそこに原子が集まり自己重力収縮をし星ができて惑星ができてわたしが生まれる。この天文学的な奇跡を無駄にしてなるまい、などと模範的なことを思ったりもするけど、逆にそれを無駄にしてしまうのも面白いのかもしれない。あは。