せかいとことば

世界は言葉によってつくられているし世界は絶えず言葉を生み出しているし。雑多な文章をつらつらと。

お酒に頼らなくても元気でいたい

 年の瀬。一年の反省なんて、ぜったいにしない。だいたい、「年」ってなんなんだ。天文学や物理学の時間を表す基本単位は「秒」だ。秒単位で生きているのだ、わたしは。秒で生きる。 地球でしか通用しない、しかも閏年という誤差が発生したりするような欠陥単位の「年」にはわたしは興味はないのだ。
 いやしかし、いろいろとあった年ではだった。いろいろとあり過ぎて、だいぶぐったりとしてしまった。というか、一年なんていう長いスパンで物事を考えたら、何もないわけがないのであって、何かしらが、ある。それなのに、そんな当たり前の道理を棚に上げておき「今年もいろいろありましたねえ」と言いながら紅白を見て正月特番を見てサザエさんを見てアンパンマンを見るというのは、非常に薄ら寒いことである。アンパンマンは見ないのかもしれないけれど。しかし、本当にいろいろあったのだ。
「今年もいろいろありましたねえ」というレベルではなく、いろいろあった。いや、なかったのかもしれない。すべてはまぼろしだったのかもしれない。この地球上のあらゆるものはすべて嘘、わたしのベッドの横でランプの光を浴びるグレンリベットもボウモアも嘘なんだ、中身は麦茶なのかもしれない。黄金色の麦茶。麦茶ならそれは嘘ではあるけれど、いい嘘なのかもしれない。優しい嘘。優しい嘘ならいらないと言っていた人が昔いたけれど、結局あなたが欲しい、とかね。他人に自分の実存を委ねてはいけない。あなたはあなたで、わたしはわたしなのだ。でもたまに、分かり合えたりするような瞬間もあったりは、する。次の瞬間、花火のように散ってしまうものだけれど。往々にして。
 ええと、何の話だったっけ。最近は、話していたこと、思いついたことを、本当にすぐに忘れる。いいアイデアが浮かんだときは、すぐに手帳やスマートフォンにメモを取るように心がけているのだが、肝心のメモが暗号のような断片的な内容であり、解読が困難なこともしばしばなのでたちが悪い。また、こういう時もある。「これは素晴らしいアイデアだ、こんな素晴らしいものを忘れるはずがない、あとで時間ができたときにメモをしておこう」これはもう完全に忘却の一途をたどるパターンである。しかも、そもそも「忘れた」ということ自体を思い出せなかったりする。それはそれでもやもやとすることはないので良いのだけども、なんていうか、欠陥。欠陥だらけの人生。
 手紙を書きたい。手紙を書く。
「こうしていると世界とつながっていられるような気がするのです、この狭い部屋のなかでもこうして、じっと息をひそめて文字を書くということで、世界がまだわたしを見放さないでいてくれる気がするのです、この寝静まった町でもわたしがしっかりと、世界とつながっていられるような気がするのです、世界とつながる夢を見られるのです」
 一方的に手紙を送りつけたい。返事はいらない。そんなものは手紙と言わないのかもしれないけどね。そういう関係性がだれかを救ったり、救われたりすることって、あるでしょ、あると思うんだよね、うん、と言ってあなたは笑った。あなた。想像上のあなた。想像上のあなたは誰よりも素敵で、格好良くって、美しくって。いつでもパーフェクト。いつでも笑顔だ。いつでも元気な人を見ると見えないところでどんな闇を抱えているのだろう、と不安になってしまう性分なのであるが、世の中には本当に「光」しかないような人が存在するので、恐ろしい。もっと言えば、闇と光という単純な二元論がよろしくないのかもしれない。もっとこうスペクトラム的な、グラデーション的な何かなのかもしれない。知らないけど。だって知らないよね、知ってることの方が少ないんだよ、ぼくたち。
「科学はhowについては詳しく教えてくれるけど、whyについては何も教えてくれない」
 むかし、誰かがこう言っていた。よくある有名な言葉だ。たしかに、その通りだ。その通りではあるのだけど、こんなことを友達に偉そうに言われてしまったら腹が立って仕方がない気がする。こういうことは、あれこれと悩んで自分の体内で消化し、自分の言葉に直してから何かに書いたり、話したりするべきものだ。けれどその工程を省いて偉そうに講釈をたれるから腹が立つのだ。って、実際に言われてもいないことを想像して勝手に腹が立っているのだから呆れてしまう。何に呆れるのか。自分にではない。世界に、だ。なーんてね。ふふ。基本的には、お酒に頼らなくても元気でいたい。