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せかいとことば

世界は言葉によってつくられているし世界は絶えず言葉を生み出しているし。雑多な文章をつらつらと。

いいときはいいけど、悪いときはとことん悪い

 わたしはむかし、雪の降る街に住んでいた。いまは、まったく降らない街。なんていうか両極端なんだよなあ、雪は降らなければ降らないでいいのだけれど、まったく降らないというのもどこか物足りない。たまには降って欲しい。あわよくば積もって欲しい。市バスがストップして欲しい。小学校の授業がつぶれて、一日中雪合戦になって欲しい。その辺でサラリーマンが転んで欲しい。
 しかしまったく降らない土地なので、しょうがない。なんだか日本でもトップクラスの雪の降らなさだとか。まあ、降ったら降ったで面倒臭いし、そのあまりにも長すぎる冬はひとを容易に絶望に陥らせてしまうし、降らないってのもいいのかもしれない。テレビ越しかなんかで、銀世界を眺めたり、想像したりするくらいがちょうどいいのかもしれない。

 ええと、それでなんだっけ。雪がどうたらとか、そういうことを書こうとした記憶が微かに存在する。が、忘れた。これはもう思い出しようのない「忘れ」だ。長年の勘がそう言っている。
 人間の物忘れはざっくりと二分できて、まず、忘れてるということを自覚できる物忘れ。そして、自覚できない物忘れ。なんやそれ当たり前やんか、という感じではあるがまあとにかく、二分できる。厄介なのは後者、と思いきや、前者だ。なぜならば完全に忘れてしまえば、それはなかったことになるから、苦悩する必然性が存在しない。
 それに比べ前者は駄目だ、忘れているということは自覚できているが、何を忘れているのかということを思い出せない。これは本当に人びとを悶々とさせる問題である。どうせだったらすっかり全部、綺麗に忘れてしまった方が潔い。まあ、何か大切なことを完全に忘れてしまって、あとから大変なことになってしまったりするんだけどね。あは。

 それで、だ。何かを忘れてしまったことを自覚している場合。このときは直前まで何を考えていたっけ、何をしていたっけ、などを一つ一つ思い出していくと糸口が見つかることがままある。それでも駄目な場合、完全に別のことをするという方法が案外、有効であったりする。たとえば部屋の掃除をしたり、ご飯を食べたり、景色を眺めたり、音楽を聞いたり。そういう生活の一部がヒントとなり、脳内の刺激となり、ニューロンシナプス結合しハッと思い出す、ということがある。何気ないことがとっかかりとなり、同時に脳内ではドラマティックなことが起きているのである。
 なので、とりあえずベランダに出て、煙草を吸おうと思った。アメリカンスピリット。アメリカンスピリットは燃焼促進剤などの添加物を一切使っていないので、ナチュラルなのだ、身体に良い、なーんて言っても煙草を吸っている時点で非喫煙者に比べると相当に身体に毒を浴びせているので、そんな配慮は無意味なんだけどね。しかし酒は百薬の長という言葉にあるように、煙草も適量ならいいのかもしれないね。知らんけどね。
 月が見えていた。月が見えた、というのはあまりにも平凡だ、駄目だ。月がわたしを見ていた。なのでわたしも、月を見た。わたしが月を見る前から月はずっとわたしのことを見ていて、それに気づいたわたしは、月を見た。月は相も変わらずわたしを見ていた。月を見るわたしを、月は見ていた。その月をさらにわたしが見た。
 見つめ合っていた、なんて言えば話は早いが、しかしそんな単純なことで終わらせたくはない。月→わたし→月→わたし→……という構造。たとえるならば合わせ鏡のようだ。なんだ、単なる合わせ鏡か、となってしまうのでこのたとえも駄目だ。
 たとえ、というのは極めて単純化された物事の関係性であり、物事の一面しか抜き出してはくれない。本当に大切なことは、何事にもたとえられないような、オンリーワンの、特別な性質であって、云々かんぬんなどと思いを馳せていたところ、肌寒い。
 そうだ。もう十一月なのだ。一向に雪の降る気配がなかったから気づかなかったが、十一月。十一月と言えばもう立派な冬である。北国におけるそれは秋、というよりも冬だ。基本的に北国には、秋というものは存在しない。あ、もうすぐ秋かな、いい季節だな、焼き芋とかしたいな、紅葉でも見に行こうか、レンタカーでも借りて、などと思っているとすぐに冬。そんな世界なのだ。
 しかしこの十一月。なんたる凋落ぶりであろうか、やる気あるのか。霰の一つでも降らせてみやがれ、などとぼやいていると北風がびゅうっと。寒い。今年も冬がきたのだなあと思った。初雪はいつかなあとふと思ったが、この街に雪は降らないのであった。無念。