せかいとことば

世界は言葉によってつくられているし世界は絶えず言葉を生み出しているし。雑多な文章をつらつらと。

「音楽のエスペラント」むかし書いたやつ

 エスペラント人工言語である。人工言語、という言葉を考えたとき、有史以来人類によって使われてきたあらゆる言語というものは人間の手によって作られたものであって、人工言語であると思うのだが、そういうものたちはそうは呼ばずに自然言語と呼ぶらしい。うむむ。ここでエスペラントは不自然な言語なのか、という議論はさておき。
 さて重要なことは、エスペラントはいわゆる自然言語とは異なり、ある理念をもって創り出された言語であるという点である。その一つとしてエスペラントには、特定の言語やその民族、文化、伝統によらない、中立な言語であるという思想が内在している。創始者であるザメンホフは民族の違い、とくに言語と宗教の違いが争いを引き起こしていると考え、エスペラントにより民族間の平和的な相互理解が可能になると考えた。このように、新たな言語を創り、民族主義を乗り越えようとするところにエスペラントの素晴らしさがある。

 ところで、音楽は人間が生み出した表現方法のなかで、言語には及ばないかもしれないが、同じくらいに普遍的に存在するものである。この「音楽」においても、エスペラントと似たような思想をもったものがある。それが無調音楽だ。
 無調音楽とはその名の通り調性のない音楽であり、中心音が存在し、機能和声によって音の配列が支配されるような調性音楽の、ある種対極にある。西洋音楽における無調への流れは19世紀後半から随所に見られたが、こうした流れを決定づけたのがシェーンベルクだ。彼は音と音との調性的な支配関係を自由にし、それまでの西洋音楽の伝統とも言える調性を否定していった。さらに彼は十二音技法と呼ばれる作曲技法を提唱した。これは平均律の十二音を平等に用いた音列をつくり、それを変形していくことで旋律を生み出す手法であり、無調音楽にある種の秩序を与えることを可能とした。
 シェーンベルクやその同時代の作曲家たちがどれほどの理念をもって無調音楽に挑戦していったのかはわからない。しかし、彼らの頭の中にはきっと、エスペラントに通じるものがあったはずだ。民族や文化、伝統かれ独立した音楽。真の意味で自由な音楽。そんなものをきっと、シェーンベルクもどこかで追及していたのであろう。そうであると、個人的な希望として思うのである。
 
 エスペラントはすばらしい言語である。すばらしい言語ではあると思うけれど、そうは言いつつ不勉強であるのでろくに勉強はしていない。基本的な活用を覚えた程度で満足をしてしまった。民族と独立言うたって結局ヨーロッパ語族由来やん、みたいな不満もありつつ。まあそれはどうでもいい。
 今夜もザメンホフの希望を思いながら、シェーンベルクを聴いている。いつになく無調が暖かく心に響く。