せかいとことば

世界は言葉によってつくられているし世界は絶えず言葉を生み出しているし。雑多な文章をつらつらと。

虫の記憶

 この間、メキシコや中南米を旅してきた知人と久しぶりに会った。「メキシコに変わった虫はいましたか」という質問を開口一番にしたら、そんな変わったことを聞いてきたのはあなたが初めてだ、と言われてしまった。
 基本的に、わたしは虫が好きなのだ。好き、と言っても採集をしたり、虫目当てに遠出をしたり、生態を調べたりだとか、そういうことはしない。その辺の草むらを歩いていると、微かに動く何かがある、あ、バッタやん、元気してた?え、最近暑いよね、ちょっと向こうの日陰で茶でもしようや、あ、なんで逃げるん。君は相変わらずすばしっこい奴やな。そんな感じで、虫たちとコミュニケーションをとることが好きなのである。
 こんなことを言うと、誰かはわたしのことを狂人扱いするかもしれない。しかし、待ってほしい。これが中世の世であったら、暑かろうとバッタを慮るもひゅんと飛ばれてしまう、嗚呼こりゃ滑稽、歌でも詠もうかしらということになるわけだ。非常に風情がある。風流である。
 そのようにして、日常のなかに風情を見出す。日常の一部として存在する虫たちが好きなのだ。遠出をしたり、調べたりしないというのは決して面倒臭いからというわけではないよ。

  そう言えば、わたしの部屋の中は三体の虫がいる。虫と言っても生きているわけではなくって、死んでいる。剥製である。しかし細かい話を言うと、部屋の中にはクモやダニ、もっと言うとミクロな昆虫たちが蠢いているのだろうがそういうものは誤差の範囲内なので考えないことにする。
 一体は、透明なシリコンのようなものに閉じ込められたゴモクムシ亜科という虫。ゴミムシみたいな形の虫だ。これはむかし大学の祭りのときに生物学科で購入した。何やら、気泡が出ないように閉じ込めるのは至難の技らしく、一年近くかけてゆっくり閉じ込めていったらしい。世の中にはマメなことをする人がいるものである。その割には一つ二百円ほどであったが。たくさん買って奇特な友人たちに配ってあげたらよかった。
 もう二体は、どこかの国のカラフルで小さなクワガタの、オスとメスとペアである。いわゆる、つがい。こちらは剥製で、二体並んでケースの中に固定されている。これはわたしがまだ幼稚園か小学校低学年くらいのときに、昆虫博物館かどこかで親に買ってもらったものだったと思う。裏には800と書かれている。たぶん800円だったのだろう。
 彼らとはもうかれこれ、20年以上も生活をともにしていることになる。これを見て、海の向こうにはわたしの想像もつかないような、変わった虫がたくさんいるのだろうなあ、素敵だなあ、行ってみたいなよその国、ということを考えたことは何度もあった。そう思うと、なんて素敵なものを買ってくれたのだろう、と思う。

 それに比べると、なんとかレンジャーの変身グッズとか、なんとかムーンの人形、なんとかカードとか、そういうものはすぐに忘れ去られてしまうなあ。次から次へと消費を煽るテレビや雑誌、そして次から次へとおもちゃを使い捨てていく子ども。そんなに大それたことでもないのかもしれないけど、せっかく買ってもらったものがそうして蔑ろにされてしまうのはとても悲しい。
 もし自分に子どもがいて、なんとかメダルが欲しいと言ってきたらどうしよう。ディズニーランドに行きたいと言ってきたらどうしよう。ああ、どうしよう。わたしは、そんなものいけません、そんなところより昆虫博物館に行きます、そこで好きな昆虫標本を買ってあげます、昆虫標本なら一生楽しむことができます、昆虫標本で一生遊びなさい、と絶叫する。うう、子どもが不憫でならない。