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せかいとことば

世界は言葉によってつくられているし世界は絶えず言葉を生み出しているし。雑多な文章をつらつらと。

クッピーラムネを食べるということの意味、その本質

ラムネが好きだ。ラムネは本当においしい。コンビニやスーパーに行けば、欲しくなくってもとりあえずラムネは買ってしまう。ラムネと言っても、森永ラムネに代表されるハードタイプや、ジューシーに代表されるタブレットタイプ、そしてクッピーラムネに代表されるソフトタイプがある。そしてどのラムネも美味しいけれど、一番好きなラムネはソフトタイプだ。
20円のクッピーラムネを買おうものなら、封をあけてそのまま口に丸ごと放り込む、美味しさを味わう、その一瞬のモーションですべてが終わってしまう。50円のクッピーラムネでも、上の動作が3、4回に増えただけであって、本質的には何も変わらない。確かに美味しいには美味しいのだ、しかし、その美味しいはすぐに消えてしまって、しばらくするとその美味しいさえも、思い出せなくなってしまう。

わたしは冷静になって考えた。
「これは意味がないのではないだろうか」
クッピーラムネを食べているというその瞬間においては、それは非常に意味のある行為であるだろう。しかし、刻一刻とすぎていくわれわれの生活において、その瞬間をしばらくすると完全に忘れてしまうという行為、クッピーラムネを口に放り込むという行為に果たしてどれだけの意味があるのか。意味なんてほとんどないんじゃないだろうか。

じゃあ逆に、意味のある行為というのは何だろう。意味のある行為。たとえば、暑い夏の日に海へ行って泳ぐという行為には非常に意味があると思われる。第一、海で泳ぐということは気持ちがいいし、楽しい。気の合う仲間と一緒ならなおさらのことだ。楽しかった記憶はしばらく消えないし、写真でも撮っておけば、10年後に見返したときにも、当時の記憶が蘇ってくるかもしれない。これは非常に意味のあることだ。
それに比べて、クッピーラムネを食べるという行為には意味がない。1時間でも経てば、そのクッピーラムネの味なんてほとんど忘れているし、6時間くらい経てばそもそもクッピーラムネを食べたということ自体を忘れてしまっているかもしれない。ううむ、これは意味がない。

しかしこうも思うのである。ならば、わたしはクッピーラムネのことを何も知らないだろうか、と。そんなことはない、クッピーラムネは美味しい、クッピーラムネを食べたいと思う、クッピーラムネを食べると幸福だ、ということをわたしは知っている。これはどういうことだろう。クッピーラムネを食べるということに本当に意味がないのなら、こんなことは思わないだろう。

そうか、わかった。わたしはクッピーラムネの総体としてのイメージを持続させるために、クッピーラムネを食べ続けているのだ。クッピーラムネは美味しいという一瞬の記憶、それはすぐに消えてしまうけれど、実はそれは美味しいクッピーラムネという概念を維持させている。わたしはわたしの中からクッピーラムネというイメージを消したくはないと思うし、そのためにはクッピーラムネを食べ続けなくちゃいけない。わたしはわたしの中のクッピーラムネというイメージのために、そのためだけに、今日もクッピーラムネを食べ続ける。