読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

せかいとことば

世界は言葉によってつくられているし世界は絶えず言葉を生み出しているし。雑多な文章をつらつらと。

たまに転ぶ

ほら、赤ちゃんってさ、何もないところでも転ぶじゃない。すとんって。大人もそうだったらよかったのになぁって思うのね。たまに。
つまりね、歩いていたらたまに転んでしまうように人間ができていたらよかったのになぁということ。何かにつまずくわけでもなく、定期的に転んでしまう。だってさ、みんなが器用に歩けるだなんてつまらないじゃない。いや、というよりはたまに転んでしまうくらいの方が面白かっただろうなぁって。
わたしたちがたまに転んでしまうようにできていたとしたら、それを踏まえた上であらゆる行動はなされていくわけよね。転ぶからあんまり急いで歩かない、とか、転んでしまったらそこで一足休憩をする、とか。街中ではたくさんの人たちがばたばたと倒れたりして、そんなのって奇妙な話だけれどその世界ではごく自然なことだし、むしろすたすたと歩くということ自体がおかしなことになるし。
でも、そしたら人は歩かなくなるのかな。転ぶのは嫌だから歩くのをやめて、家に閉じこもってしまうだろうか。ううん、そうはならない気がする。たまに転ぶということを踏まえた上で、みんな行動していくんだと思うな。たまに転んでしまうことはしょうがない。しょうがないことだから、それを踏まえた上でゆっくりと歩く。転ぶときの痛みを軽減するためにはどうしたらいいかとか、そういう方向にも発想が広がっているかもしれない。
あるいは、定期的に転んでしまうという困難がしたがう二足歩行、という行為自体から逃れるために交通手段が発達するのかもしれない。みんな、セグウェイみたいなのに乗ったりして。ううむ、なんだかそれは、違うような気がする。この妄想は、失敗だったのかもしれない。
いやでも、こうも思う。こういう考えってもしかすると、転ぶことを悪いことだと考えているわたしたち特有のものなのかもしれない。転ぶことが当たり前の世界では、それは普通なことだから、それから逃れようだとか、そんなことなんてぜんぜん思いつかないのかもしれない。セグウェイに乗って移動すれば、確かに転ばずに済むけれど、はたしてそれってどんな意味があるの、って。

たまに転ぶ世界の人たちは、転ばないように歩きたいと願うのだろうか?