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せかいとことば

世界は言葉によってつくられているし世界は絶えず言葉を生み出しているし。雑多な文章をつらつらと。

「真っ白な雪の上にはカラスが」

「やっぱ、ポエティックに生きないとだめだよね、ポエティックに」
  放課後、わたしは駅前のマクドナルドでマックシェイクをすすりながら、そんなことを言っていた。なぁーんて言ってる時点で所詮わたしはポエティックではないのだろうな。本当にポエティックな人間というのは、そんなことは一切思わずに、平然とポエティックなことをするのだろう、たぶん。
  第一、よおし、ポエティックなことするぞ、と言ってポエティックに振る舞うというのはとても薄気味悪いことのように思う。キャラ作りをしている不思議ちゃんたちは、そういうことを毎日のようにこなしているのだろうか。それはそれですごいことなのかもしれない。尊敬してしまう。

  ところでそもそも、ポエティックなことというのはいったい何なのだろう。ポエティック、を電子辞書でひくと、詩的情緒豊かな、とあった。わかるようでわからない。あのとき、ポエティックって何、と聞かれなくてよかった。
  でもとりあえずは詩を書いたらポエティックになるのだろうか。それならいまからわたしはいくらでも詩をつくろうと思うのだけど、それは全然、ポエティックなことでもなんでもないように思う。なぜ。

  わかった。別に詩を書かなくたって、詩的な表現をすれば良いのだ。なんでもかんでも、ポエティックな表現をしてみよう。
  例えば。今日のわたしはずっとほどよいくらいの筋肉痛を味わっていた。昨日の体育の卓球を、妙に張り切ってしまったせいだ、あんなものは、汗をかかない程度にそれなりにこなしておくべきだった。それはもうどうでもいいのだけれど。
  ここでこの痛みを、「生を感じさせるためのシグナル」と言ってみてはどうだろうか。筋肉痛やばい、と言うのではなくって、生を感じさせるためのシグナルが発信されている、と言う。ううむ、なんだかアホらしい。全然、違う。
  よく考えるとそもそも、筋肉痛という着眼点じたいがよろしくなかったような気がしてならない。筋肉痛というのは、ポエティックな世界とは対極にあるような気もする。しかも、あの古びた体育館で白と青の不恰好な体操服を着て、ひたすらに黄色のピンポン球を打ち合うということ。この筋肉痛がそれによってもたらされたものであるということが、なおさらそのポエティック界からわたしを引き離しているような気がしてならなかった。

  じゃあこんなのはどうだろう、と思う。朝起きて、部屋のカーテンを開けると、外は一面の銀世界。雪の上には、一羽のカラスがぴょんぴょんと飛び跳ねながら、雪をつつく。
  一羽の真っ黒なカラスと、一面を埋め尽くす真っ白な雪。
  そのコントラストは、とてもポエティックなような感じがした。わたしの住む街なんて、雪が積もるというのは五年に一度あるかないかのことなのだけれど明日、朝起きたらそんなことが起きていたら、とってもポエティックだろうなと思った。

  明日。朝起きて、カーテンを開けるときっと外は銀世界なのだろう。それはきっととても綺麗で、真っ白な雪の上にはカラスがぴょんぴょんと。