せかいとことば

世界は言葉によってつくられているし世界は絶えず言葉を生み出しているし。雑多な文章をつらつらと。

「鮮明に」

よくわからない。よくわからない気持ちになる。こういうときはどうしたら良いのだろう。どうするべきなのだろう。みんなは、こういうときにどうしているのだろう。どういう方法が、あるのだろう。

***

ふと、むかしのことを思い出してしまった。ナガタさんは、こんなことを言っていた。
「言葉にしなければ、それは無いのとおんなじだ」
それがどんな文脈だったのかは忘れてしまった。しかしそこが大学の近くの中華料理屋で、青島ビールをちびちびと飲みながら、彼はそう言っていたということだけはなぜだか鮮明に覚えている。
「でも、言葉にできないことって、たくさんあると思います」
わたしは反論した。そういうものたちも、無いのと同じなのですか、とわたしは付け加えた。
「言葉、というより、表現と言うべきだったかもしれない。言葉で表現できないものだったら、何か別のかたちで表現するべきだし、そうしない限りは無いのと同じだよ」
異様に明るい午後11時過ぎの中華料理屋で、彼はそうきっぱり言い切った。疑いの余地もなくそう言うナガタさんを見てわたしは、そういうものですかねぇ、とか、その場では適当に話を流してしまったと思う。しかしわたしは、ぜんぜん釈然としなかった。
どうして表現をしないと、無いものになってしまうのだろう。わたしの中ではしっかりと存在しているものでも、無いものになってしまうのだろうか。そんなのって悲しい、あんまりだと思った。

きっとナガタさんは、勇気のある人だったのだと思う。そして、真面目だった。わたしは今でも、彼のようには到底できないと思うし、彼のようになりたいとも思わない。
ただ、彼の言う「無いもの」を、わたしは少し、ネガティブに捉えすぎていたのかもしれない。自分以外の人間にとっては無いものであっても、自分自身の中には、しっかりと存在している。それならば、すべてを言葉にする、表現する必要はないのではないか。無いものとされたとしても、それで良いのではないか。

それでもわたしはこの、よくわからない気持ちを、きっと言葉で表現するべきなのだろうなと思うのだ。それは誰に伝えるためだろう。いや、誰にも伝えなくたっていい。何かで表現する。かたちを与えるべきなのだ。そして、それに相応しいかたちはやはり、言葉なのだろうなと思う。

こう心に決めたところで、結局、ナガタさんに言いくるめられてしまったようで嫌な感じだ。しかしこれは別に誰のために書くということではない。ただ、かたちを与えるということに過ぎないのだから。そうすることが自分にとって、とても大切なことなのだと、思うのであって。

わたしはそうして、ボールペンを持った。破り取ったメモ用紙にとりあえず書いてみたわたしの文字はなんだか阿呆らしく見えた。
「言葉にしなければ、それは無いのとおんなじだ」
ナガタさんの言葉を思い出していた。わたしのこのよくわからない気持ちは、いまどのくらいかたちになっているのだろうかと思った。