せかいとことば

世界は言葉によってつくられているし世界は絶えず言葉を生み出しているし。雑多な文章をつらつらと。

イズムに沈む街のリズム

tutu。とぅとぅとぅ、tu、っと口ずさみながら街んなかを歩いていたのだ。そしたら見たことあるような顔が視界のなかに現れたような気がして、もう少しよく見ると本当に知っている人だった。
いまは誰かと話す気分じゃない。誰かと話す気分じゃないときに無理矢理誰かと話をするとお互いにとって良くない、というのは自分は乗り気ではないからどこかよそよそしくなってしまい、そのよそよそしさが彼に伝わり、彼の微妙な波長の変化、を瞬間的に感じ取ったわたしもまた同じく波長を変化。そういうループを延々と続けながらじゃあまた、という一応の形式的到達点を探すという一連の行為はとても疲れる。
さて、みなさまは見て見ぬ振りをして知人から逃げるようにするわたしを冷酷だと思うだろうか、思わないだろうか。思わないで欲しい、たぶんこれはわたしなりの優しさなのだから。っとは言いつつ、そういうときにぶわっとスイッチを変えて、よう、久しぶり、とか軽やかに話しかけて華やかな世間話をふわっと繰り広げられる人には敵わないなあとも思う。

ところで。思うのですが言葉、っつーのは世の中に湯水のごとくあふれている。有史以来、この地球上に登場した言葉の数、たとえば文字の数でも文の数でも文章の数でも、というのはいったいどれだけあるのだろう。
もちろん、その数は現時点までとしてカウントするならば、有限の範囲におさまる。しかし、その一秒先、また一秒先と、つぎつぎにものすごく膨大の言葉の波がわれわれの前には押し寄せてくるわけよね。そうして、この地球上に現れた言葉の総数、とかいうものには意味がなくって、それは人間が生活する限り永遠に増え続ける。
そう考えると、湯水という比喩は適切ではないのかもしれない。この地球にある水の総数というのはだいたいにして定数、であって、しかし言葉というのはいつしか、それすらも超えるほどにたくさんの、大きな大きな巨大な蓄積となって、世界を包み込んでいくのだろう。
その意味では今もなお膨張し続けている宇宙、なんかが比喩としては優秀かもしれない(※注)。宇宙のごとくひろがりゆく言葉。宇宙としての言葉。宇宙。言葉、言葉。

言葉といえば。人間には人生の中で三回くらい、それによって世界がいきなりぶわあっと広がるような言語体験があると思うのです。言語体験、とか偉そうなことを言ってしまったけれど、ようは誰かに何か言われたり本を読んだり何だりして何らかの言葉に強いインプレッションを受ける、ということ。価値観をぶわっと変えられてしまうような、自分にとってはものすごく意味のある言葉というのが、そしてそういう状況が人生には三回くらいはあると思うのです。
こんなことを言うと、わたしのその実際の体験をここで話すのかと、期待されがちだと思います、が、残念ながら今のところ、そのような三つとして思い当たる体験はないので今後の人生に期待していきたいところであります。


※注 ひょっとしたらもしかしたら宇宙というのは、初めっから無限に広がっているかもしれないので、気をつけなければならない。恐ろしや恐ろしや。