せかいとことば

世界は言葉によってつくられているし世界は絶えず言葉を生み出しているし。雑多な文章をつらつらと。

路上ライブのすすめ

路上ライブは楽しい。圧倒的に楽しい。普通であれば関わることのないような不特定多数の人たちに演奏を聞いてもらったり、パフォーマンスを見てもらったりすることができる。しかも無料で。

ライブハウスなど専用の場所でライブをするというのも楽しいことなのかもしれない。しかし、ライブ会場に足を運ぶ人は、そもそも興味をもっている人なわけであって、偶然会場へ入ったという人はほとんどいないだろう。それに対し、路上ライブの観衆というのはほとんどすべてが偶然通りかかった人たちである。そんな人たちに対して手軽にアピールができる方法は路上ライブ以外にない。

そんな素晴らしい路上ライブだが、なぜか敷居が高いと思われているようなので、無駄に路上ライブ歴が10年くらいあるわたしがワンポイントアドバイスをする。
(ちなみに、筆者は主に民族打楽器かギターを演奏している。路上ライブと言えるかは微妙だが、サイファーといって集団でラップをしたりすることもある)

 

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・聞いてもらおう、見てもらおうなどと考えない
このようなおこがましいことは決して考えてはいけない。たいていの人は何らかの目的で街中を歩いているわけであって、決してあなたのパフォーマンスを見るために歩いているわけではない。足を止める人など稀だ。あなたは街中にBGMを提供している。演出をしている。風景の一部となる。そう考えよう。

・下手でも大丈夫
上手くなければ路上ライブしてはいけないなんてルールはない。家じゃ練習できないから外で思いっきり練習する、くらいの感覚で始めるとよい。しかも人前で練習するから上達するスピードも早い。
そもそも、通りかがったすこしの時間であなたを下手だと判定できる人は多くはいないだろう。下手だと思われたとしても、別に「お前下手だな! 帰れ!」などと言われることはない。ライブハウスでお金を取っていたらそういうこともあるのかもしれないが、そもそもここはストリートである。下手でもいいのだ。

・つねに低姿勢でいる
いくらストリートだからと言って、我がもの顔で占領するのはよくない。ストリートはみんなのものであって、あなただけのものではない。近くに住む人やお店の人にうるさいと言われたら音を小さくするか、素直に場所を変えよう。赤ちゃんや、電話をしている人が通ったりしたら音量を下げてあげよう。
あなたの音楽やパフォーマンスをみんながみんな好きだとは限らない。みんなの場所であるストリートの一部を使わせてもらっている、くらいの気持ちでいた方がいい。

・来るもの拒まず
路上ライブをしていると、必ずと言っていいほど変な人に遭遇する。無茶なリクエストをする人、煽ってくる人、根掘り葉掘り質問をしてくる人。しかし、あなたに少なからず興味があるからこそ彼らは絡んでくるのである。面倒だと思わず、できる限り受け入れた方がお互いに楽しめる。ストリートの雰囲気も良くなる。もし、そういうものが嫌ならお金を払ってライブハウスに出させて貰えば良い。もしくは、河川敷や山など人のいない場所でライブをすれば良いのである。

・場所は早いもの勝ち
ストリートには基本的に指定席というものはない。住んでいる人や、店の営業、通行人の迷惑にならない場所であいているところならどこでも良い。駅前などでは無許可のパフォーマンスが禁止されている場所もあるが、公園や歩道であれば基本的には警察に通報をされない限りライブができる。
近くで先にパフォーマンスをしている人がいたら、適当な間隔をあけるのが礼儀だ。同じストリートパフォーマーとしてお互いにリスペクトし合うべきである。どのような場所でやるのがいいのかわからなければ、まずは金曜や土曜の夜に繁華街を歩き偵察をしよう。面白いライブがあれば、投げ銭をしよう。ほんの気持ちでも、もらえたら嬉しいものである。
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だいたい、こんなことに気をつけさえすれば、楽しい路上ライブ生活を送れるはずだ。何をやるかよりも、とりあえず何でもいいから路上ライブを経験してほしい。友達の付き添いでもいい。

他者との垣根がなくなり、ストリートが祝祭へと変貌するダイナミズムを体感して欲しい。今すぐ路上ライブを始めよう。

呼吸をするように

わたしはけっこう自分の父親のことを格好いいなと思っていたりすることがあって(格好悪いところもたくさんあるが)、そのうちの一つがどんなときでも必ず仕事が終わって家に帰ったらビールを飲むところ。それって別によくあることじゃないの、と思うかもしれないけど、その一貫性がすごい。どんなときでも必ず飲む。

わたしが一番感動したのは出張で帰りが遅くなったとき、普段は17時ごろには家に帰ってくるのだがたまに出張に行くときがあった。その日は夜更かししていて、そうしたら夜中の3時ごろに父親が帰ってきた。まだ起きていたのかという驚いたような顔をしながら、ただいまと言って服を着替え、ビニール袋から缶ビールを一本取り出し、コップになみなみと注ぎ、流し込むように飲み干した。すぐに一缶を飲み終えると吸い込まれるように寝室へと向かって行った。

 

しかし考えてみるとわたしにも同じようなところがあって、どんなときでも家に帰ったら寝る前に必ず何かしらの音楽を聴く。ちゃんとしたオーディオで。iPodなんかではなく。

音楽をかけて、一息つくということがどういうわけか必要なのだ。なので、家に帰ってすぐに寝るということはなかなかできないので、そのような時間を見越して早めに帰ることが必要になってしまう。どうしても時間がないときは、止むを得ず音楽をかけながら寝る。

 

そういった日課というか、おまじないというか、なんというかよく分からないけど続けてしまっていることって誰にでもあると思う。そういうものには、それ自体意味がないように思えても思わぬところで安らぎを与えてくれているのかもしれないし、そういった儀式を大切にしなくちゃいけないと思うよ。

今日は充分早めに家に帰ったのに、聴きたいと思っていた音楽、Soft Machine のやけにベースの音圧が高いデビュー前の音源集、それを聴くのをずっと忘れていたのでこんな時間になって思い出したように聴く。このCDが終わる前にワインを飲み終えて歯を磨き眠りにつけたらすばらしいのだがそれは難しそうである。

精神のテリトリー

まずはノート開いても何も思い浮かばないときは今日も、昨日の続きをしようと思いながらいつも想像、の中で巡りあうことも交互、にすれ違う人の流れはまるで流れるプールの水中の一つ一つの水の分子の合間にできる無数の電子配列、その極性の上に浮かぶ塵のようなものを集めて作るロボット、どこも何も変わらないのに変わったこととして流れてゆく人生に川の流れを重ね、重ねていくのは自由だがそれを人に強制してはいけない、なぜならばこの世界はこの瞬間に作られては消える、イメージの奥、未明に届く新たな価値観と価値観で悴んだ手と手をつなぐスピード、昔見た記憶も、白くも、黒くも色と色のつなぐ虹のようなグラデーション、浮かべ取る、そして捨ててはつなぐ木の葉の精神を。

Amazonで買った中古CDが音飛びしたので文句を言ったら返品せずに返金してもらえたという話

 先日、Amazonで中古のクラシックのCDを買った。4枚組のCDであったが、そのうちの1枚に音飛びがあった。1枚の中で2曲分がほとんどまともに聴けないという格好だ。

 しかも、それに気づいたシチュエーションが最悪であった。就寝時のBGMとして流しており、眠りについたのとほぼ同じタイミングで音飛びにあってしまったので、うなされたのかと勘違いをしてかなり後味が悪かった。そんなこともあって、苦情を送ることにしたのだ。


 Amazonの会員ページのようなところに、出品者へ返品などの依頼をすることができるフォームがある。そこに「音飛びが激しいので返品または返金をしてほしい」という旨のメッセージを送った。おかげで寝付けなかったとは言わなかったけどね。

 4枚のうちの1枚以外は正常に聴けるけれどすべて返品になってしまうのだろうか、もし返品になったらその前にPCにデータを取り込んでおこう、ふふ、などと悪巧みをしていたところ、その日のうちに返答がきた。全額返金で、しかも返品はしなくていいという。なんてすばらしい話!

 

 ここからは想像だけど、その出品者はかなりの高評価があり、商品数も多いショップであったため、下手に対応をして悪い評価をつけられることを恐れていたのではないかと思う。たかが数千円のCDではあったし、彼らにしてみたら誤差のようなものだったのだろう。ある程度の金額の商品に対しては一律でこのような対応をするように、あらかじめリクスマネジメントした値付けをしているのかもしれない。

 しかし、世の中には私のように苦情を言う人ばかりではないだろう。諦めてしまったり、そもそもすぐチェックをせずに音飛びに気づかなかったり。ダメ元でも、ちゃんと苦情を言葉にして伝えるといいことがあるかもよ、というお話。

石と貝を干す

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 ずっと水槽に入れっぱなしの石と貝、なんとかシュリンプはいっこうに孵化する気配がなかったので水を捨てて石と貝を取り出して窓際に干した。濡れていた石と貝はすぐに乾いた。

 窓際に石と貝を干して、これはなんだかおしゃれだと思った。よくわからんけど、窓際に石と貝があるというのは普通ではない、通常の状態ではそのようなことは起こりえないであろう。普通の暮らしをして普通の幸せを感じる人が果たして、窓際に石と貝を干すだろうか。その非日常性に人は、おしゃれさを見出すのである。

 ありきたりなものを人はおしゃれだと言わない。おしゃれとは日常の微妙な乖離、その機微のなかにこそ存在しうるものであって、それを意図的に作り出すというのは才能の必要なことである。才能のない私は幸運なことに、偶発的におしゃれを手に入れた。

 窓際に佇む石と貝を、乾ききったあともそのまま、風になびかせるのであった。