せかいとことば

世界は言葉によってつくられているし世界は絶えず言葉を生み出しているし。雑多な文章をつらつらと。

ゴミ拾い概論

 落ちているもの、捨てられているものを拾うということはこの21世紀の都市生活において唯一と言っても過言ではないほど、RPGを感じられる行為である。なによりも、お金がかからないのがすばらしい。そして、何が見つかるかわからないという不確定性。これに味を覚えてしまうと、お金を払って綺麗に並んだ商品を選んで買うということが馬鹿らしくなる。われわれがモノを買うとき、そのほとんどは根源的な欲求によるものではなく、作られた需要に反応して生じる結果である。店頭に並ぶものを選んで買うという行為にはときめきがない。落ちているものを拾うということは、その偶然性によりわれわれに再び彩りのある生を与えてくれる。

 

モノを拾うということ。それを楽しむためには、まずは欲しいものを探そうという浅はかな期待は捨てることだ。欲しいものを探して、それを手に入れられるなんて、そんな気楽なことはそう起こりえない(ある程度レベルが上がれば、その確率を上げることは可能であるが、それでも偶発的なものである)。ここが初心者が一番間違えやすいポイントである。

 大事なことは、ありのままを受け入れるということ。ここにこれが落ちている、ではこれをどう活用しようかと考える。自分で使ってもいいし、誰かにあげてもいい。具体的な期待はせずに、路上に目を向ける。ゴミ捨て場に目を向ける。そうした習慣ができたなら、きっとあなたが望むものが手に入るはずだ。

 より具体的には、燃えないゴミや、廃品回収の前夜に街を散歩するといい。あなたはきっとたくさんの宝物に出会う。ゴミを持ち去ることは、多くの街で条例で禁止されている。しかし、法で禁止されたことはすべてしてはならないかと言うと、そうではないだろう。道路を見て欲しい。平然とスピード違反をしている車が走っている。表向きは禁止されているが、明文化されず黙認されている行為というのはこの社会では有り余るほどある。ゴミを拾うという行為だってきっとそうだろう(大々的に集め、商売をするとなれば話は別かもしれない)。そもそも、捨てられるものを再利用するということは環境に良いことだし、賞賛されるべきことである。このような裏付けから、あなたは堂々とゴミを漁れば良い。世間は思うほどあなたのことを気にしない。堂々と漁ることがポイントだ。もちろん、開けたゴミ袋はしっかりと閉じて、元通りにしなくてはならない。

 つねにゴミを捨てられるタイプのゴミ捨て場を探してストックしておくのも良い。不法侵入にあたる恐れもあるのでここでは深く言及しないが、まめにゴミをチェックするというのは重要である。それは、数撃ちゃ当たる、というもので、日々よくゴミをウォッチしていればそれだけ目ぼしいものに当たる確率はあがる。それに、意外と同業者は少なからず存在しているので、競争という意味でもまめにチェックをするべきである。

 ゴミ捨て場以外でも、路上に目を向けるとお宝が落ちていることがある。落としてしまったものもあれば、明らかに捨てられているものもある。これを見つけるためには、つねに地面を注視しながら歩くことが必要で、技術的には少し高度になる。遺失物は警察へ届けなくてはならないことになっているが、これも3か月の間に所有者が現れなければ、所有権が拾得者へと移る。落ちているものを堂々と、罪悪感もなしに自分のものにできるわけである。財布などの貴重品以外は、たいてい持ち主が現れないので、ぜひ積極的に拾ってみてほしい。

 

 モノを拾うというのは本当にすばらしいことだ。きっと、あなたの「お金」「商品」「所有」に関する価値観を一変させてしまうことだろう。思えばそもそも、この地球には「値段」というものは存在しなかったのである。落ちているもの、自然に存在しているものを拾ったり、捕らえたりして我々は生活していた。そんな、根源的な生活を、喜びを取り戻すためにも、あなたも落ちているものを拾ってみてほしい。

酒を飲む、走る

 意味もなく突然走り出したくなる、という人間なら誰しもが持つ本来的欲求(持つよね?!)のストッパーを容易に外してくれるお酒、がわたしは大好きだ。特に仕事帰りに、それも帰り道を歩きながら飲む缶ビールは最高だ。この地球上にはなんてすばらしい飲み物が存在するのだろうと思う。缶ビールを飲み干し潰してポケットへしまう。意味もなく突然走り出す。周りを歩く人たちはきっと、この人は何か用事があり急いでいるのだろうと思う。しかし残念ながら、仕事の終わったわたしにはもう何も用事はなく、急ぐこともない。そう、何も意味もなく走っているのである。言うなれば、走りたいがために走っている。完全に純粋な純度100パーセントの走り。雪道を転びそうになりながらも、走る。息が切れても走る。酒が回る。それでも走ることをやめない。

 この世界は、お前たちの想像通りにはいかないのだ。所詮貴様らが外部の世界について想定しているものは貴様らにとって都合の良いモデルでしかなく、その埒外に事象はいくらでも存在しうる。走る人がなぜ走っているのか、その理由について、深く深く思考したまえ。

そこは世界の着地点としては遠すぎた

「明けない夜がないのと同じように」などと人びとが語るとき、彼らは夜は明けるものだということを、暗に仮定している。一抹の疑いもなく。明けない夜がないように辛い日々もいつかは終わる、のではなくって、辛い日々がいつかは終わるように明けない夜もない、が正しいのだ。本当は。

 今日も疲れた一日であった。もはや疲れなのかなんなのか風邪なのか精神の病なのか単なる過労なのかよくわからんがとにかく疲れた。身体が重い。しかしこんなことを言っても疲れるだけ、暑いときに暑いと言うと余計に暑くなるそれと同じなのであってならば疲れてないとでも言えばいいのか、そんな根も葉もないことが言えるか! わたしは疲れている。お疲れ様です、という挨拶を人はこんにちはのように使うわけだけれどもそこにいちいち言の魂を吹き込めて発するわたし、本当に疲れている人の「お疲れ様」の重みを感じるが良い。

 なんてことを言っても疲れがとれることはない、疲れを取るために何か文章を書く、救いを求めるなんてことがあり得るわけはなく、疲れているときに文章なんて書いたらさらに疲れる。でもなんて言うんだろう、健全な疲れと不健全な疲れというのがある、グラウンドで3000mを走り終わったあとの疲れはとても健全だった、中学生の頃、無理やり長距離部門に引き込んだ小池くんがばてているのを爽やかな笑顔で眺めるのは楽しかった。そういった健全な疲れは不健全な疲れを駆逐するのかもしれない。

 そもそも。幸せな瞬間は持続しない。瞬間、という言葉じたいが表すようにそれは点のように存在するものなのだ。その最中では線のように認識されていても、記憶として存在するのはつねに点だ。零次元的な存在だ。それに対して不幸の記憶は一次元的な存在である、ような気がする。

 辛いのはみんな同じなんだ、などという妄想に惑わされてはいけない。

それは生きているという感覚

 登校中にいきなり走り出す小学生、そんなに急いでいるようでもないのに楽しそうに走り出す彼や彼女たちは、生きることへの喜びを、そのありあまる生命の力を抑えきれずに走り出すのだということをあの人はいつか教えてくれたっけ、わたしはもう22歳で、わたしにもきっとそんなときがあったのだなあと言ったら、あなたは笑って「きみは今でもそんな感じじゃない」と言っていたけれど、違うんだ、わたしだって今でも走ったりする、特に意味なんてなく、でもそれは走ろうと思って走るのであって、体からあふれる感情を抑えきれなくなって走り出してしまうなんて、そんなことはもうずっとなかったし、これからもそんなことは訪れないんだなあと思ったんだ、そんなことを考えたらなんだか悲しくなってしまって、そんなことで悲しんでいるなんて知られたらまたあなたに馬鹿にされるだろうなあと思って顔には出さなかったけれどね、でもそのあとあなたと走ってみたりしてそれはそれで楽しかったんだ、楽しかったような気がした、息切れした夜は肌寒かったような気もするし、もうわたしは小学生じゃないんだ、なんて当たり前のことを気づかされて悲しくなったりもしたし、なんて、馬鹿な話。ふいに思い出したりして。

ぼんやりと思い出す、忘れる

 さっきから隣に座っている人が頭を揺らしたり手を動かしたりしてリズムをとっていてそれはわたしの聞いている音楽と同期していて、ああ隣の人も同じ音楽を聴いている、とぼうっと考えていたけれどそんなことはない。ないはずだけれどそういったことが起きることもあるのだろうなあとぼんやりと考えている自分がいた。
 彼はイヤホンをつけていたので、わたしのiPodから音楽が漏れていてそれを聴いているということはないはずだし、そもそもスピーカーはついていないし。だとしたらBluetoothなどで同期しているのかな、合わせた覚えはないけど勝手にそんなことができたりするのだろうか、まあ一緒に聴けるならどうでもいいや、みたいなことを思っていたら見覚えのある風景。目的の駅に着いた。
 駅の2番出口はいつもものすごく強い風が吹き込んでいて、この風はいったいどこへ行くのだろうと思う。その分がどこかから外へ出て行かなくてはおかしい。インプットとアウトプット。そんなことを思いながら震えていると青の点滅だった。
 駆け足で急いで渡り切った。息が切れて思ったのは、急ぐことによって信号を渡ることのできた自分と、急がずに次の青信号をゆっくりと待ち、平常の心拍数のままで帰ることを天秤にかけるとどちらが勝るのだろうということであった。そもそも、とくに急いではいないし、なぜ人は急いでしまうのだろう。人はなぜ。と話を広げるまでもなく、早く帰りたいという気持ちが無意識にわたしを急がせているのだろうということに気付いた。早く帰りたい、というか早く寝たい。その一心である。

 最近は、早く帰って、美味しいものを食べて、たくさん寝る。それだけが頭の中を支配している。定食屋でお腹いっぱいになって、8時間でも寝ることができた日には本当に幸せなのだ。心の底から幸せなのだ。でも、なんていうかそんなんでいいの、っていう気持ちはつねに身体のどこかにあって、でも混じりっけなしに100パーセント幸せなのだからいいじゃん、と思う心も存在していて、どうしたもんかなあと思うのだけれどこの辺りで答えが出なくなってしまうと眠くなってしまう。明日のためにも寝なくちゃと思ってしまう。まいった。まいりながらも、レコードに針を落とした。古臭いノイズのあとにスピーカーが揺れる。
 レコード屋のおじさんは優しかった。1時間かけてゆっくりと選び抜いた7枚のレコード、奥の安売りコーナーから選んだのだけれど、値札がないものもすべて200円でいいよと言ってくれた。お釣りがないんだけど、と言われて財布を見ると、小銭はほとんど入っていなかった。自分も細かいのがないと言うと、すこし悩んで、じゃあ1000円でいいよと言ってくれた。得した、けれどなんか申し訳なくって、店を出たあとに近くの自販機でジュースでも買って崩して、400円をまた持って行こうかと悩んだけどそれは面倒だったのでやめた。得した。
 レコードのジャケットの裏面をよく見ると、だいたいは何かが書き込まれていた。何かの日付らしきものや、サインなどがある。サインはきっと持ち主の名前だろう。こんな投げ売りされたものに演奏者のサインがあるはずがない。
 '78 jan.16 Takeuchi と書かれたバルトークのピアノコンチェルトのレコードを聞く。竹内さん。あなたはいまどこで何をしていますか。わたしのこの声は届いていますか。わたしは、疲れて家に帰るとあなたが昔、擦切れるほどたくさん聴いたそれをまた大事に聴いています。ねえ、それってすごく素敵なことだと思わない? 竹内さん。わたしの聴いている音楽が、なんらかの力によって同期して、あなたの耳にも届いているといいなと思います。イヤホンを半分こするように、わたしと竹内さんは同じ音楽を聴いているのだと思います。わたしが疲れているように、竹内さんも疲れているのだと思います。でも、わたしの方が元気なときは、あなたに少しだけ、力を分けてあげることができます。だから、あなたの方が元気なときは、わたしにも少しだけ、分けてほしいのです。それって、わがままでしょうか。そのくらいのわがままなら、いいよね。だからわたしは、レコードを裏返して眠りにつきます。あなたからのおたよりをずっとずっと待っています。それでは。 '16 feb.4