せかいとことば

世界は言葉によってつくられているし世界は絶えず言葉を生み出しているし。雑多な文章をつらつらと。

まばたきをするのがどうにももったいなく感じられてずっと目をつむったままでいる

 生きていると、たまにいいことがある。どうしようもなく、だめだ、もうだめだ、何もやってもうまくいかない、すべてがだめになった、生きることに意味なんてない、と思ってしまったとしても、それでもなんとか無理をして生きていると、たまにいいことがある。
 たとえば。明日のことなんてもうどうでもいい、どうでもいいと思いながらビールを飲んでいる。セブンイレブン限定の、キリンのまろやかエール。こんなにおいしいエールビールを230円くらいで買えるなんていい世の中になった。小さなスピーカーからソフトマシーンのセカンドアルバム(あまり目立たない作品だけれど、これがまたすばらしい)が聴こえる。せわしなく走る車の音と学生たちの楽しそうな声。その空気の振動と煙草の煙が混ざり合う。この束の間の瞬間、明日になれば消えてしまうものだけれど、この瞬間においては生きるということは楽しいことだなあと心の底から思っている。
 死んだらどうなるんだろう、ということを考えていた。わたしが死んでしまったら、たくさんの人たちが悲しむだろうなあ。あいつはあれが辛くて死んでいったんだ、あれが悲しくて消えていったんだ、どうして助けてあげられなかったのだろうと、いろいろな人が悩む。後悔をする。そんなのっていやだなあ、それよりは少しでも自分が無理をしたらいい、なんて思って。
 でもそれは、半分本当で、残りの半分くらいは嘘。今だからそんなことが言えるのであって、そんなことなんてちっぽも考えられなかったりした。自分のこの気持ちをすべて放棄できたらそれだけでいいと、それしか頭になかったような気がした。第一、自分が消えてしまったら自分の意識なんてどこかへ消えてしまうはずで、残された人がどうだとか、そんなことは本当にどうだっていいことなはずだ。
 でも、この世界にはまだまだたくさんの見たことのないものがあって、楽しいことがたくさんあるんだろうなという希望みたいなものがずっと、頭のなかにあった。それが一番の幸運だった。わたしは楽しいものをたくさん知っている。だれよりも、たくさん知っている。そんなものをすべて捨ててしまうのはもったいないなあと、そんな気持ちがわたしをなんとか、駆動させていた。
 こうして考えてみると、わたしはなんてポジティブな人間なのだろうなあと思う。ポジティブというか、貧乏性というか。楽しいものが目の前に転がっているはずなのに、それを手放してしまうのはなんて、もったいことなんだろうなあと、その感覚だけがわたしを動かしていたのだった。

 この前、知らない人に労働はつらい、身を削っていくような思いだ、ということを話した。どうしてそんなことを話したのかも忘れたし、第一知らない人にこんなことを話すべきではないのかもしれない。しかしその人は、労働は捨てたもんじゃない、働くことで生まれる責任感や使命感は、人を成長させる、というようなことを言っていた。そのせいか、わたしの顔つきも昔と変わったように思う、と言ってもらえた。わたしはうれしかった。
 とても救われたような気がした。その人は、わたしの知らない人で、当然、わたしの以前の顔つきなんて知らない。どうやら、わたしのことを誰かと勘違いしていたようだった。でもそんなことはどうでもよかった。わたしは救われたのだ。その事実を、どうして否定できようか。

 わたしが泣いたり、うれしくなったり、喜んだり、楽しんだり、笑ったり。そんなことを誰も否定することはできない。誰にも否定されるすじあいはない。わたしはうれしい。ただそれだけ。うれしい気持ちが、ただここに存在している。それだけ。
 生きていると、たまにいいことがある。

 

記憶のトリガーは引こうと思っても引けない

 ぜんぶ好きだよ。きみも、きみも、きみも。ぜんぶ好きなんだ。わたしの好きなぜんぶが、そのぜんぶがわたしの好きなままでずっといられたらいいのに。いてくれたらいいのになあって思うんだけど、それでもやっぱり変わってしまうものだったりするんだ。好きなんだ、けど、好きなだけじゃあやっていられなかったりして。ああ、好きなものに囲まれて、好きなことだけしていたいな。うまくいかない。うまくいかないんだ。
 ちょっとした希望、こうだったらいいなあ、ということをノートにさりげなく書いたきみ。ずっとその気持ちを持っていて。これからどんなにつらいことがあっても、そのことを忘れないでいて。わたしは、きみに何か大切なものをあげられるだなんて、そんな大それたことは考えちゃいないよ、でも、その気持ちをずっと忘れないでいて。お願い。そしたら、きみはきっと幸せになれるよ。きみがいつか大人になって、そんなことを思っていたなあと、思い出してくれたらいいんだ。辛くなったとき、ふと、そんなことを思い出してくれたらいいんだ。なあんて。
 久しぶりにウィスキーを飲んで、久しぶりの酔いだった。あのころ、灰だらけの机の横、布団の中でうだうだと考えていたことがふたたび身体の中に戻ってきたようなそんな感じだったんだ。

好奇心で発電する機能

 っていうかこれは現実、なのかもはやわからない、駅の構内ではおっさんが楽しそうな表情を浮かべ倒れ、無線機を胸に装着したこれまたおっさんが笑いながらそれをサポート、近くに立つ兄ちゃんがそれを心配そうに眺めており、それ以外の人民はまったくもって無関心、というより本当は関心があるのだけどそれを隠しているがゆえになんとも不穏な空気が充満している、駅。駅だった。どんよりと。
 あ、そうだ、わたしは急いでいたんだった、風景の一部として同化する前にわたしは急いでいた、急いでいるわたし。なので急ごうとして走ろうとするも走っている人はいない、ここでわたしが走ったら注目を浴びる、周囲の人民がわたしをちらちらと眺める、どうしてわたしを見るんだ、ああそうか、それはわたしに関心があるということであってそれは優しさ、なのかもしれないけどそれは少し違う気もするけれどとにかく走るのは疲れる、なので走るとも歩くとも言えない、その中間というか見方によっては走ってる、または早歩き、みたいな、アンケートをとったら走っていると答える人と早歩きしていると答える人とが半々になるくらいのペースでずっと、駅を駆け抜けた、改札を出てからこんな調子でまた次の改札へとICカードをタッチするのであった。
 なんていうか、ダメだ、どうしてこんなことをしないといけないのだろう、どうして改札が二つあるのだろう。おかしくね? 二つの改札。入って、出てと考えたら四つの改札。往復で八つの改札。ぐはあ。もっと言えばどうして家の玄関を出たらすぐ目的地につながっていないのだろう、ドアトゥードアというのは本来瞬間的なものであるべきであって、扉を開いたらそこに目的の世界が広がっているべきなのだ、しかし基本的に、この世の中は欠陥だらけであってそんな中に生を受けた完全なる個体、わたし、は今日も大変な思いをする羽目になるのだ。

洪水みたいな日々だけど全部が面倒臭い

 基本的に気力がない。だるい。めんどい。眠い。めんどい、という言葉は面倒臭い、という七文字を発するのがもはや面倒臭いがゆえに生まれた略語なわけであって、めんどい感が言葉全体からこれでもかと言わんばかりに溢れているからすばらしい。なんてどうでもいいことを説明できるほどにはめんどいわけではないのかもしれないな、わたしは。
 しかし、やらなくちゃいけないことになると途端にだるい、やりたくない。いやちょっと待って、それって本当にやらなきゃいけないことなのかな、ってすこし立ち止まって考えるのだけどまた日常に飲み込まれていく感じでエンドレスな日常にループ&ループ。沈んでゆくのであった。うう。

 やらなきゃいけないこと。その義務感はいったいどのディメンションで生じるものなのか、という根本的な疑問があるわけだが、そんなものはいくらたくさんあっても肝心の気力がない。何かをしたい、だとか、何かをやり遂げてやる、なんていう気力がない。気力ゼロ。無気力空間。
 やりたいことがいまのわたしに何かあるだろうか。たとえば、たくさん寝たい、仕事を休みたい、マッサージ屋に行きたい。こんなものはやりたいこととは呼べない、なんていうかこうネガティヴな雰囲気が漂い過ぎている。もっと、ポップなやりたいこと、イマジネイティブなやりたいこと。いまやりたいこととかなんかあるんすかーと聞かれて、これこれこういうことがしたいんすよーと言って、おおーすげーっすね、となるようなこと。そんなことが何かあるだろうか。
 あ、あった。旅に出たい。旅に出たかったんだ、わたしは。ずっと忘れていたけど旅に行きたかったということをいま不意に思い出した。ああ、旅に行きたい。行きたいんじゃなくて、行こう。今度の二連休に行こう。二連休って何だよ、普通じゃねえか。せめて三連休、とか思うのだけど次の三連休っていったいいつ。これだから駄目なんだ、だなんて言い訳はしていられない、だって旅はもうすぐそこに待っている。わたしを手招きしている。とりあえず近場でいいから旅に行こう。近場でいいから一泊はしよう。日にちは、目的地は、ってこうやって考えるととたんにめんどくなるのだがそんなんだから駄目なんだ、気力を出さなくてはいけない。まずは気力を出すことが先決だ。
「気力 出し方」で検索をすると朝、日の光を浴びると気力が出てくるらしい。よし、太陽光を毎朝思いっきり浴びるようにしよう、気力を出すためにあらゆる努力をしよう。気力があれば、やりたいこともたくさん出てくるはずで、それを実際に行動に移していくことも容易なはずだ。頑張ろう。頑張って気力を出していこうと思う。とりあえず、太陽の光を浴びようと思うよ。

 今日も知らないマンションの軒先で煙草をふかしている。道路を歩く人がこちらを見ている。馬鹿め、と思った。というのは彼らはわたしをこのマンションの住人であると思っているに違いなく、あ、知らないマンションに住んでいる知らない人が軒先で煙草をふかしている、と状況を瞬時に把握するさまがわたしには手に取るように見えた。馬鹿め、君たちの状況認識というのは所詮その程度のものなんだ、枠にはめられた中でしか物事を理解することができないのだ、かわいそう、って思うけどこの高度に情報化されたデータの洪水の中で暮らすにはそうするしかないのかなあ、と思うけどやっぱり君たちの認識は歪んでいる。歪んだ人たちを眺めているのはとても愉快だ。たのしい。

どうということもない

 はあ。はああ。はああ。黄色いおしっこが出た。朝、出勤するとすぐにトイレに駆け込み便器のなかをのぞけば濃く鈍い黄色の液体が惜しみなくあふれている。
 身体はいつだって正直だ。昨日は寝床につく前にマルチビタミンサプリメントを3錠も飲んだ。一日1錠というのが規定量ではあったが、疲れていることもあってそれだけ飲んでみた。元気になる気がして。それが。すべてそのまま溢れ出してしまった。身体は正直なのだ、そんなに急にたくさんのビタミンを摂取することなんてできない。そもそもビタミンというものは野菜やなんやらと一緒にコツコツと身体に取り入れていくものだろう、それを大事なビタミンだけを取り出して一瞬で飲み込み、吸収してやろうだなんていうのはなんとも虫の良い話、そんなものはまやかしだとどこかで思ってはいても、やはりサプリメントというのはなんだかありがたい気がする、頼りたい気分になってしまう。ああこれは現代人の性だなあ、とまた過ちを普遍化してしまう自分にうんざりしてしまうけれど疲れているためかそれもすぐにどうでもよくなってしまったりして。
 ところで「虫のいい話」というのは、どうして虫という字が使われているのだろう。文字だけを読むと、昆虫に関するいい話、あるいは虫さんの良かったエピソード、という風に読める。しかしもちろんこれはそんな意味ではない、どう解釈したらいいのか。
 すこし調べてみると、古来、われわれの体内にはたくさんの虫たちが宿っているらしい。その虫たちがいい感じになる、そして身体からいい感じのヴァイブスを発する、というのが「虫のいい」という意味らしい。なるほど、わたしの身体にはたくさんの虫が宿っているのであるな。そして身体のなかにいる虫たちをわずかな時間で効率的に喜ばせるだなんてそんな虫のいい方法はないのだなあ。コツコツと、コツコツと体内の虫を喜ばせていかなくてはだめなんだよ。