せかいとことば

世界は言葉によってつくられているし世界は絶えず言葉を生み出しているし。雑多な文章をつらつらと。

洪水みたいな日々だけど全部が面倒臭い

 基本的に気力がない。だるい。めんどい。眠い。めんどい、という言葉は面倒臭い、という七文字を発するのがもはや面倒臭いがゆえに生まれた略語なわけであって、めんどい感が言葉全体からこれでもかと言わんばかりに溢れているからすばらしい。なんてどうでもいいことを説明できるほどにはめんどいわけではないのかもしれないな、わたしは。
 しかし、やらなくちゃいけないことになると途端にだるい、やりたくない。いやちょっと待って、それって本当にやらなきゃいけないことなのかな、ってすこし立ち止まって考えるのだけどまた日常に飲み込まれていく感じでエンドレスな日常にループ&ループ。沈んでゆくのであった。うう。

 やらなきゃいけないこと。その義務感はいったいどのディメンションで生じるものなのか、という根本的な疑問があるわけだが、そんなものはいくらたくさんあっても肝心の気力がない。何かをしたい、だとか、何かをやり遂げてやる、なんていう気力がない。気力ゼロ。無気力空間。
 やりたいことがいまのわたしに何かあるだろうか。たとえば、たくさん寝たい、仕事を休みたい、マッサージ屋に行きたい。こんなものはやりたいこととは呼べない、なんていうかこうネガティヴな雰囲気が漂い過ぎている。もっと、ポップなやりたいこと、イマジネイティブなやりたいこと。いまやりたいこととかなんかあるんすかーと聞かれて、これこれこういうことがしたいんすよーと言って、おおーすげーっすね、となるようなこと。そんなことが何かあるだろうか。
 あ、あった。旅に出たい。旅に出たかったんだ、わたしは。ずっと忘れていたけど旅に行きたかったということをいま不意に思い出した。ああ、旅に行きたい。行きたいんじゃなくて、行こう。今度の二連休に行こう。二連休って何だよ、普通じゃねえか。せめて三連休、とか思うのだけど次の三連休っていったいいつ。これだから駄目なんだ、だなんて言い訳はしていられない、だって旅はもうすぐそこに待っている。わたしを手招きしている。とりあえず近場でいいから旅に行こう。近場でいいから一泊はしよう。日にちは、目的地は、ってこうやって考えるととたんにめんどくなるのだがそんなんだから駄目なんだ、気力を出さなくてはいけない。まずは気力を出すことが先決だ。
「気力 出し方」で検索をすると朝、日の光を浴びると気力が出てくるらしい。よし、太陽光を毎朝思いっきり浴びるようにしよう、気力を出すためにあらゆる努力をしよう。気力があれば、やりたいこともたくさん出てくるはずで、それを実際に行動に移していくことも容易なはずだ。頑張ろう。頑張って気力を出していこうと思う。とりあえず、太陽の光を浴びようと思うよ。

 今日も知らないマンションの軒先で煙草をふかしている。道路を歩く人がこちらを見ている。馬鹿め、と思った。というのは彼らはわたしをこのマンションの住人であると思っているに違いなく、あ、知らないマンションに住んでいる知らない人が軒先で煙草をふかしている、と状況を瞬時に把握するさまがわたしには手に取るように見えた。馬鹿め、君たちの状況認識というのは所詮その程度のものなんだ、枠にはめられた中でしか物事を理解することができないのだ、かわいそう、って思うけどこの高度に情報化されたデータの洪水の中で暮らすにはそうするしかないのかなあ、と思うけどやっぱり君たちの認識は歪んでいる。歪んだ人たちを眺めているのはとても愉快だ。たのしい。

どうということもない

 はあ。はああ。はああ。黄色いおしっこが出た。朝、出勤するとすぐにトイレに駆け込み便器のなかをのぞけば濃く鈍い黄色の液体が惜しみなくあふれている。
 身体はいつだって正直だ。昨日は寝床につく前にマルチビタミンサプリメントを3錠も飲んだ。一日1錠というのが規定量ではあったが、疲れていることもあってそれだけ飲んでみた。元気になる気がして。それが。すべてそのまま溢れ出してしまった。身体は正直なのだ、そんなに急にたくさんのビタミンを摂取することなんてできない。そもそもビタミンというものは野菜やなんやらと一緒にコツコツと身体に取り入れていくものだろう、それを大事なビタミンだけを取り出して一瞬で飲み込み、吸収してやろうだなんていうのはなんとも虫の良い話、そんなものはまやかしだとどこかで思ってはいても、やはりサプリメントというのはなんだかありがたい気がする、頼りたい気分になってしまう。ああこれは現代人の性だなあ、とまた過ちを普遍化してしまう自分にうんざりしてしまうけれど疲れているためかそれもすぐにどうでもよくなってしまったりして。
 ところで「虫のいい話」というのは、どうして虫という字が使われているのだろう。文字だけを読むと、昆虫に関するいい話、あるいは虫さんの良かったエピソード、という風に読める。しかしもちろんこれはそんな意味ではない、どう解釈したらいいのか。
 すこし調べてみると、古来、われわれの体内にはたくさんの虫たちが宿っているらしい。その虫たちがいい感じになる、そして身体からいい感じのヴァイブスを発する、というのが「虫のいい」という意味らしい。なるほど、わたしの身体にはたくさんの虫が宿っているのであるな。そして身体のなかにいる虫たちをわずかな時間で効率的に喜ばせるだなんてそんな虫のいい方法はないのだなあ。コツコツと、コツコツと体内の虫を喜ばせていかなくてはだめなんだよ。

気持ちたちを動かしていくということ

 悲しいことがあった日は悲しい顔をしよう。誰とも話したくない日は誰とも話さないようにしよう。そう考えても結局、笑ったりしてしまうし、誰かとおしゃべりをしてしまうし。そうできるということは、本当は悲しくなんてないんじゃないか、と思って、本当に悲しいということはどんなことなんだろう、どういう気持ちなんだろうと一晩中考えてみたりしてやっぱり、そんなことを考えるということは悲しいなんてことはないのだなあと思ったりした。

 楽しいことがあった日は楽しい顔をしよう。誰かと話したい日は誰かと話すようにしよう。そう考えても結局、むすっとしてしまったり、誰とも話さなかったりするし。そうしてしまうということは本当は楽しくなんかなかったんじゃないか、と思ってしまって、わたしは本当に楽しいと感じていたのだろうか、楽しいということはどういうことなんだろうと考えてしまって、そんなことを考えるということは楽しいということは本当は存在しないんじゃないかなんて思ったりした。

 悲しい気持ち、楽しい気持ち。こんな気持ちたちを把握して、だれかと共有したりするということはどういうことなんだろう、と夜な夜な考えた。わたしにとって楽しいこと、それが本質的に楽しいことであったかは定かではないのだが、を知覚し、言葉にしてだれかに話すということは本当に奇跡的なことだ。そんな人の数だけ存在する、楽しさ、悲しさ、のかたちを誰かに伝えたり、表現したりするということは奇跡的なことである気がしてならないのだ。
 今日はこんな悲しいことがあった、こんな楽しいことがあった。そんなことをたくさん話したり、話さなかったりしたい。今日はトマトを上手につぶせたことが楽しくって、悲しいことは、あったような気もするけれど誰にも言わなくって。

午前四時半の静寂と四畳半の閉塞

 午前四時半の静寂と四畳半の閉塞が溶け合うバルコニーの夜に交わる煙が世界との架け橋だったころ、この世のすべてをわかった気になって君だって連れさってどこへだって行けるって信じていたころ。
 ころころと転がっていくビー玉のような心をコントロールするのは難しい、混沌として昏倒しそうな日々を思想ひとつで乗り切ることだ、それは言葉、にしたらあっという間に崩れ去る刹那、うぶな感覚もすっかり鈍ってしまって愚鈍な夕暮れにストーンと落ちる、鈍角三角形であるために研ぎ澄まされた鋭角を併せ持つ感性は慣性力では動かずにつねに加速し続ける膨張宇宙、空中で点滅する三色の灯りがエンドレスにループしてはループ量子重力理論に取り憑かれた苦学生のように不確定、暗くて、どこへも行けないような日々のなかでひび割れた心から現れたさらわれた気持ちがいつの間にか舞い戻った。
 この深淵な夜空をひもといてしまった人はもう戻れない深海を彷徨う深海魚、身体の、すべてを研ぎ澄まして見えた宙に浮かぶ飛行物体エックス、まるで地球とセックスするように一体化し続ける惑星にワープホール、つかの間の永遠を神経の先端で味わう、交わる、粘膜のあたたかみを知って吐息の煙幕のなかで幻覚か現実かわからない連日で、中身を求めたくなって折りたたみできない翼で夢に逃避行。

無限の可能性という名の布団の中で眠る

 無限の可能性という名の布団の中で眠る、巡る季節に想いをはせながら平和を祈る、まあとにかくこれ以上悪くなることはないから安心しな、邁進しな、と自分に言い聞かせる、飛び交う罵声と葛藤のころ中二、道徳の授業中にフリースタイルラップ、不道徳きわまりない独特なスラングが飛び交う、飛び出す、飛び出せ動物の森からあぶれた獣どもが夢のあと、16分音符で構成されたボングで音楽を吸う、流れるセロニアスモンク、スモークで鼓膜が震える瞬間を逃さず味わう、間違うことを恐れないアニマルたちの盛り場、たとえば生きてるか死んでるかもわからないシュレーディンガーの猫のよう、行ったり来たり繰り返してまた戻っては毒ガスにやられた六月の月を夢見る電気羊、アンドロイドが見た月の裏側のクレーター、それは学生街春を謳歌する学生の、覚せい剤ばりのオーガスムよりも速く急降下する思想のエスカレーターのように。