せかいとことば

世界は言葉によってつくられているし世界は絶えず言葉を生み出しているし。雑多な文章をつらつらと。

ある日突然なにかが訪れてどうにかなる

 何となく急に10代から20代のころ、学生だったころのことを思い出して、やりたいことが無数にあって、エネルギーがありすぎて、しかしどれも中途半端に終わってしまって。でもそんな無責任なところも楽しかったりして。そんなことを急に思い出したりした。

 

 どんなことでもいいので、やりたいこと、大切にしたいこと、守りたいこと。そういうものがあるというのはとても素敵なことであると思うよ。幸いなことに、私にはつねにそのようなものがあるので、恵まれていると思うのである。

 人生って基本的にいつどこで何があるか分からないようにできている運ゲーであり糞ゲーであるけれど、そういった軸になるものがあればある程度楽しめるようにできていると思います。最近気付きました。

 

 いかがでしたか?あなたはどう思いますか?ということではなくって、個人的な話。この世界は、すべて個人的な話によって構成されている。

 

海はすべてを肯定する

海に来た。別に海に来るつもりもなかったのだけれど目的地のすぐ近くに海があったのでついでに海へ寄ったのだった。砂浜のあるタイプの海。岩のゴツゴツした海よりもこっちの方が好きだ、波の音が優しい気がするし、気軽に寝っ転がることだってできる。

海を見ていると安心する。正確に言うと、延々と押し寄せては引いていく波を眺めていると安心するのだ。こんなに大きな規模で、一定の間隔で絶えず波を発生させることはものすごくエネルギーのいることだろう。これがもし、人工によるものであったら、夜間は休止したり、点検のために停止したりだとか、そういうことがたびたびあるのではないだろうかと思うのだけれど、自然界にはそれはない。波が、止まることはないのだ。

目をつぶって、しばらくして開いてもまだ波。その辺に寝っ転がって、時間をおいて眺めても、波。延々と波打つその様には意味なんてないのだろうし、そういう意味のないことを延々と繰り返している、こちらの期待を裏切ることは決してないというところに、絶対的な安心感を覚えるのであった。

そんなことを考えつつ波を眺めていると、ただ波を眺めているのは海に対して失礼なのかもしれないという疑念が湧き上がり、何のためらいもなしに靴下を脱ぎ波を浴びた。それは9月にしては思いの外冷たくなく心地よかった。引き潮に引きずられそうになるあの薄っすらとした恐怖、そのまま立っていると足元がどんどん削られて沈んでいく落ち着かなさ。どれを取っても最高だ。海はいい。この現代において一人の人間に世界の途方もなさを全身で感じさせることのできる極めて最適な手段だ。

 

濡れた足はタオルで拭いてはいけない。何故ならタオルが砂だらけになってしまうから。乾いた砂の上を歩いていたら、足は勝手に乾いてくれる。そして乾いた砂を手でこすって落とせばいい。

困難なほどに夏

 ぼん、っていうか、どん、っていうかそのどちらでもないようなぼんやりとした振動音、耳を澄ますと聞こえなくなってしまう、気のせいかと思って目をそらすとまた微かに聞こえてくる音。夏になるとそんな音がどこからともなく聞こえてくるものであって、大抵はそれは夏まつりの盆踊りの太鼓の音であったり、花火の音であったりする。そういった音というものは夏以外には発生することはなく、それも人びとが集う場所でしか発生しえない音である。そういった音のことを人は夏の風物詩と言うのであろう、わたしも概ねそれに同感である、かなりの偶然が重なり、この広い宇宙における地球という惑星のこの日本という国の小さな町に太鼓やら花火やらが鳴り響いているのだ、これを風流と呼ばずして何と呼べるだろう。ともかく夏というのはこのような文明による人口音と、けたたましいほどに脈絡なく鳴き続ける虫たちによってBGMが構成されている、冬などにはあまりこういったことは起きない。元来、騒ぐことが好きなわたしにとっては、騒がしい夏の音はとても好きだ、冬のしんしんとした感じも同じくらい好きだけどね。要は季節感が好きなのである。四季が好きなのである。四季がある日本に生まれてよかった、などと言うと途端にきな臭くなってしまうのでこのようなことはあまり言わない方がいい、四季がはっきりとしない地域にもそれなりの良さがあるのではないだろうか、日本以外だって四季がある国や地域はいくらでもあるだろう、そもそも果たして日本に本当に四季は存在するのか、だとか、あらゆる批判的精神をもってこのような言説に立ち向かっていかなくてはならないのである。しかしよく考えると四季が好き、だとか季節の移り変わりが好き、とかって結構アホなことなのかもしれない。つまりそれは、毎年必ず暑くなったり寒くなったりして、それに合わせて植物の様子や街の様子が変わっていくのがおもろい、色んな行事があって楽しい、その毎年のサイクルがハッピー、みたいな話であって、それって100万年とか100億年くらい前から続いてた自然現象に生物や人間社会が無理矢理適応していった結果なのであって、それを好きとか、楽しいとかって言うのはどうなんだろう。でもそういう適応するための努力って素晴らしいし、そういうことを踏まえて季節が好き、なんて言うのは正しいことなのかもしれない。たぶん。

 

 つまり、そういった意味で、暑い夏を頑張って楽しく乗り切ろうという意味において、太鼓のビートが響いていた。こだましていた。鳴り響いていた。それを家でキャッチしたわたしはそのぼんやりとした波動の強まる方へと自転車を漕いだ。公園が見えるたびに、ここだと思い、歓喜し安堵したが、音が強まるだけで肝心の発生源にはたどり着けなかった。行けども行けども鳴り響く太鼓のビート。強まる太鼓のビート。その盆踊り大会はどんどんとヒートアップして太鼓のビートも心なしか早まっているような気がして反響音が響き渡りもはやその会場がどこにあるのかまったく見当もつかなかった。車輪のついた動物の風船を転がして歩く子どもたちがいる。そんなものは夏まつり以外では手に入らないし、その帰り道にしか外に現れることはない。夏まつりは必ず行われている。りんご飴を持った子どももいる。まつりが行われていることは決定的だ、前から聞こえてきたと思えば後ろから聞こえる音、太鼓のビートが建物の壁に反響してその反響した音が別の建物にあたりその無限の連鎖反応がさらにわたしを惑わせてまるで合わせ鏡の中にいるような気持ちになって逆にそれも悪くないのではないかなどと思っているうちにまつりは終わってしまった。
 太鼓のビートがまだ聞こえてくるような気がする。

「10回で一回無料」は10%OFFではない

ポイントカードが10個たまると、一杯無料になるラーメン屋へよく行く。ポイントが貯まったのでタダでラーメンが食べられて、わーいヤッピーと喜んでいたのだが、ふと思った。これは何%引きに相当するのだろうか。10回で1回無料になるのだから、10%引きなような気もするが、よく考えるとそんなことはない。
以下に計算をしてみる。(割引率は回数によって変動するが、ポイント還元を受けた時点での平均の割引率として考えることとする)

ラーメンを一杯700円とすると、10杯食べて7000円である。そして、11杯目はタダで食べられるので、7000円で11杯食べられることになる。つまり、一杯あたり
7000/11 ≒ 636円
となる。10%引きには少し足りない。

ラーメンを一杯 n 円としたら、同じようにして一杯あたり
10n/11 円
となり、つまり 1/11 ≒ 0.091 からおよそ9.1%引きに該当するということがわかる。

なぜこのようなことが起きるかというと、無料となるのはあくまで11杯目だからである。これが10杯目で無料となるのであれば、10%引きに該当することになる。
ちなみに、同じトリックで、某札幌市営地下鉄SAPICAは10%引きではない。あくまで「10%分のポイントが貯まる」ということでしかないのだ。

余談ではあるが、たまに良心的なお店で、ポイントカードが貯まって引き換えをする際にもポイントをつけてくれるお店がある。この場合に何%引きになるかも考察しておこう。
上と同じように、10杯で次回の1杯が無料となる、一杯 n 円のラーメン屋について考える。

11杯目までで使った金額は 10n 円、ここまでは同じであるが、次に21杯目までに使った金額は 19n 円となる。(11杯目は無料でかつ、ポイントがもらえるので、20杯目で20ポイントが貯まることになり、21杯目も無料となる)
同様にして、31杯目までに使った金額は 28n 円、41杯目までに使った金額は 37n 円である。

これを一般化して、10m+1 杯目までに使った金額は (9m+1)n 円となる。よって一杯あたり
(9m+1)n/(10m+1) 円
となり、m→∞ とすると 9n/10 となり、近似的に10%引きとなることがわかる。例えば m=10 つまり101杯食べた時点で一杯あたり 91n/101 ≒ 0.901n となり、ほとんど10%引きになっていると言える。

以上の例から結論めいたことを言うならば、ポイントによる還元よりも、その場ですぐに割引してもらえた方が消費者としてはありがたいということである。同じ店にそんなに何十回も行くとは限らないし。
でも、ポイントカードにはポイントカードなりの貯める喜びがあって、それはそれでいいものとも思ったり。

訪問販売のまんじゅうと人形

会社のオフィスに突然、クーラーボックスを持った人がまんじゅうのようなものを売りに来た。そんな、このご時世に突然まんじゅうを、それも普通のオフィスに売りに来られて、おっ、ちょうどまんじゅうが食べたかった、一つもらおうか、なんて人はいないだろうに。ましてやちょっと足を伸ばせばすぐコンビニで好きなまんじゅうを選べるこの時代に、だ。
残念だけどいらないと答えると、売り子の彼は嫌な顔一つせずに帰って行った。少し時間が経った後に考えてみると、彼はきっと上司からまんじゅうを売ることを命じられていて、ノルマだってあったのだろう、もしかしたらフリーランスかもしれないけれど、それでも一日のノルマがあるのは同じである。まんじゅうはナマモノだ。
もしかしたら買ってくれるかもしれないという淡い期待を胸に秘めつつわざわざここまで来てくれた、それでも結局だめだった、でも諦めずに次の場所へと向かう。そんな彼を思うと一つくらい買ってあげてもよかったかもなぁと少し思ったのだった、五分ほどたったあとに走って追いかけて買うほどの気持ちはなかったけどね。

 

それで、思い出した。わたしが小学生か中学生だったころ、父親がニヤニヤとした顔つきで変な人形を持って仕事から帰ってきた。
「変な外人が仕事場に来て買ってくれって言ってきたから買ってやった、やる」
そう言ってその人形を渡された、原色のカラーリングをした鳥にもタヌキにも見えるその人形はお腹を押すと奇声のような電子音を発した。奇妙な人形だったが、どこか愛嬌がありわたしはそれを気に入っていた。そしてそんな人形を買ってしまう父親にも好感をもった。
外国人の売り子の彼は、きっと不慣れな日本にきてあまり仕事もなく、やっとの思いで見つけた仕事では売れそうもない大量の人形を持たされ、一日中売り歩かされた。そんな奇妙な人形を買う人は少なく、大抵は門前払いされてしまう、そんなときに、わたしの父親が気前よく買ってくれて、本当に嬉しかったことだろう。
それは、彼に対する同情からではなくて、単純に「よくわからんけど面白いから買うか」というものだった気がする。父親の性格からして。そういう何気ないことでも、誰かを救っていることもあるのだなぁと、そんな素敵な出来事を不意に思い出したのであった。もしかしたらその外国人の彼、話し上手で売りまくってたのかもしれないけど。