せかいとことば

世界は言葉によってつくられているし世界は絶えず言葉を生み出しているし。雑多な文章をつらつらと。

教員を辞めて普通の会社で働くようになって思ったこと

 昔、教員をやっていた。私立の高校だった。やりがいはそれなりにあったが、とにかく大変で、毎日くたくたになって家に帰ってすぐ寝てまた起きて学校に行く。そんな日々だった。

 そんな生活もやりがいだけでは続かず、体調も崩し、これはそろそろ本格的にやばいと思い、パワハラまがいの環境もあり辞めると校長へ伝えた。秋が近づく頃、今すぐにでも辞めたい気持ちだったが、なんとか春までやり通すことができた。年度の途中で担任や授業の担当が変わるのは子供たちのために良くないし君のためにも良くないだとかなんとか言われて引き留められ、そんなんそっちの都合だろ、こっちは今すぐにでも辞めたいんだなどとは思ったが、今になってはなんとか頑張ってよかったという気持ちである。無理して潰れていた可能性もあるのだけれど。

 そして今は気付けば普通の会社で働いている。いわゆる会社員だ。アンケートの職業欄があれば迷わず会社員に丸を付ける程度に。教員から会社員となり、普通の会社員の素晴らしさに驚くことがあったので、以下に記す。

①残業代が出る

 これは本当に大きな問題で、教員は残業代が出ない。一切出ない。教職調整額という半世紀も前に決められた、月給の4%を上乗せで支給するから残業代は支給しないよという無茶苦茶な制度が今でも続いている。いわゆる定額働かせ放題。固定残業代を設定している一般企業の方が断然マシなレベルである。これは公立の教員についての制度なのだが、私立もこれを準用しているところが多い。

 教員の業務が定時で終わるわけがなく、部活動、生徒指導、学習対応、職員会議などが定時後にも当たり前のように行われる。それに対して誰も疑問を言わない。それが常態化している。時給換算したら最低賃金を割っているような月もあった。

 なので、普通の会社員になって残業代が出るようになって非常に感動した。教員時代、まともに残業代が支払われていたら今頃貯金が凄いことになっていたのではないかと思う。公立は微妙だが、私立校に勤務されている方は残業代を求めて学校側とぜひ裁判でもしたら良いと思う。それなりの記録を残していればたぶん勝てると思います。

②休日出勤するとかなりの手当が出る

 教員は何かと休日の仕事が多い。補習、講習、部活動など。私立校の場合はそもそも土曜日に授業が設定されていることもある。私の場合もそうだった。年間休日はいったいいくつあったのか、100日もなかった気がする。講習の手当も1時間2千円くらいで、そのために休日にわざわざ学校に行くというのも腹立たしいものであった。部活動に関しては交通費しか手当がなかった。完全にボランティア扱いである。ナメてる。

 その点、普通の会社は凄い。勤務した時間に応じて手当が出るし、しかも平日に勤務した場合よりも多い額が出る。感動した。

③有給休暇が普通に取れる

 教員にも有給休暇という制度はある。もちろんある。しかし教員には担任業務、授業、部活動など、割と代わりの効かない業務が数多くある。有給休暇を取ろうとするには、それらの代わりをしてくれる人が必要になる。担任の場合は副担任、授業は自習監督、部活動は副顧問といったところだ。この辺りのお願いをして回るのも非常に面倒で、忙しい学校ではいい顔はされない。

 なので、多くの教員は長期休暇の間に有給休暇を取る。しかしここにも罠があり、長期休暇中にも講習や部活動などのイベントが山ほどある。結局、そのようなイベントが何もないような日を針の穴を通すように探し、なんとか有給休暇を取るのである。

 その点、普通の会社は重要な会議や取引でもなければ、ある程度自由に有給休暇を取ることができる。多くの同僚に頭を下げる必要もない。なんて素晴らしいのだろうか。

④落ち着いてご飯が食べられる

 教員経験のない人にとっては意味が分からないかもしれないが、教員にはほとんど決められた休憩時間というのがない。生徒のお昼休みはあるが、その間にも小テストだの、委員会の集まりだの、生徒からの質問だの、様々な雑務がある。そのため教員は昼の一瞬の隙や、空きコマの時間に適当に昼食を済ませる。

 しかし普通の会社員にはお昼休みという決められた時間があり、そこで落ち着いてご飯を食べることができる。そのあと休憩所で休むことだってできる。なんて素晴らしいんだろう。

⑤勤務条件がしっかりしている

 普通の会社では、募集や入社の段階で待遇や年間休日などの条件が明確に伝えられる。しかし教員の場合はその辺りが非常に曖昧である。求人にもほとんど書かれていない。

「ボクはお金なんていりません!子供たちに情熱を注げればそれだけでいいんです!」という人を求めていますと言わんばかりに明示していない。昇給や査定の基準も不明瞭なところが多い。教職は聖職みたいなふざけた都合の良い解釈が根強く残っているところであると思う。

⑥上司がいる

 教員には上司というものが存在しない。校長や教頭などを除いて、建前上はみんな平等な立場ということになっている。お互いをなになに先生と呼び合う。だがしかし実際には複雑なパワーバランスが存在しており、そのあたりを読み解くのは非常に難しい。そのくせクラス担任や教科担任の責任はすべて背負うことになる。

 しかし普通の会社には役職があり、上司や部下という縦割りのシステムがある。責任の所在が明確になっているのである程度気楽に仕事ができる。

⑦サービス早出する必要がない

 教員時代の定時は8:00であったが、必ず30分以上前には職員室にいた。なぜか?保護者からの欠席連絡がひっきりなしに来るのである。担任が対応しなくてはいけない。他にも生徒からの質問であったり、部活動の朝練であったりと色々とある。定時よりも前に来なくては仕事にならないのである。しかしもちろんこれはサービス早出である。

 しかし普通の会社員はそこまで早く来る必要はない。もし定時前に決まった仕事があるのであればその分手当も出る。最高かよ。

⑧授業がない

 教員にとっては授業が仕事なんだから、普通の会社員に授業がないのは当たり前の話だろと思うかもしれないが、それは少し違う。

 教員の場合、授業が絶え間なくある。学校や個人によっても異なるが、私の場合は一日で3〜4コマの授業があった。そうなると空いた時間は一日2〜4コマと放課後で、その間に必死に授業の準備、テストの採点、提出物のチェック、諸々の担任業務、生徒対応、校務分掌をこなすのである。

 ここで曲者なのが校務分掌である。これは学校運営をしていく中での雑務を教員みんなで分担しましょうというもので、生徒指導、進路指導、教務、総務など色々ある。その中でも私は教務の時間割作成を担当しており、これが最悪な仕事であった。

 年度の終わり、春休みに来年度の時間割を作成するのであるが、これが本当に難しい。個々の教員の受け持つ教科や1日の時間数やNGの時間帯、使える特別教室の制限、クラス合同で行う授業、一日になるべく同じ教科を入れない、などなど多くの制限がある中で、時間割を完成させるのである。

 全校で30クラス程度あり、一週間で35コマ程度、およそ1050コマを複雑極まりない条件のもと埋めていくパズルである。しかも土曜授業がある週、ない週と2パターン作る必要がある。そもそも解が存在するのかも定かではない中で時間割を作成していくのだ。作成ソフトも一応はあるのだが、これがポンコツで、100コマ近くはピースがハマらない。注文の多い先生や非常勤の先生に「火曜日の午後、なんとか授業入れないでしょうか?あ、5時間目なら可能ですか?ありがとうございます!助かります!!」などの不毛なやりとりを幾度となく繰り返し、無理やり時間割を完成させていくのである。

 そしてやっとの思いで完成させた時間割であるが、毎回その通りに事が運ぶわけではない。行事の度に特別時間割というものが組まれる。例えば3学年が体育館で進路指導集会を行うとする。その時間に3学年の先生が別学年で担当している授業はできなくなり、また体育館で行う予定であった体育の授業もできなくなる。そのため授業の入れ替えが必要となり、またパズルを解く必要がある。私の学校はなるべく自習にならないように授業を入れ替えるというクソルールがあったために、パズルをより困難なものにさせていた。また定期テストの際には試験監督割を一から作る必要がある。

 いったい自分は何のために教員になったのか、時間割を作るために教員になったのか、と自問自答をすることも少なくなかった。誰もいない職員室で輪転機で刷ったA3の時間割を机に置いて回るという日常であった。

 しかし、だ。普通の会社員には授業がない。なので、この校務分掌のような業務がメインとなり、それだけをやっていれば良い。これは仕事が半分になったような気持ちであり、会社員は授業がなくて楽だなというアホらしい感覚を未だに覚えることがある。


 ざっと思いつくだけでもこんな感じ。要約すると教員はクソだ。今すぐ辞めて普通の会社員になれ。


#退職エントリ

浮かんでは消えていく星のイメージ

幽体離脱しては揺れたりしてる、この夜に溶ける二度目の緑、一人でいるときにだけ気付くものをひたすら大切に持つ、それは心というよりは踊ろうとする本能、ほんの、わずかな音の光の方向、衝動、か何かよく分からんがそこの、片隅の方、光るものにありつく、という瞬間にだけ見えるものがあれば、いいなってくらいのレベルで生きるか死ぬかでどっちかでいいんじゃねって、気分になって、また街の片隅や道路を眺めて、流れる日常のMVが恋しい、ありふれたものを作るのは易しい、だがそれを一から生み出すのは難しい、今は君に足りないものをすべて作る時間だ、そのためのスパイスに夜という微炭酸、満たした、泡はすべて溶けて消えてしまった、時がくればやがて溶けてしまう魔法が、包み込んだ今はしばしどこか遠い空と、奥の方で鳴っている光と、それを見てる星の、どこかかなた一億光年くらい先の、映像を今見て思い出すあの頃、チリが共鳴して星が生まれ重力がうまれ銀河ができたあの頃、コロコロと転がっていく惑星を見ては次にたどり着く星を探して。

悲しくなって泣くこともあれば嬉しくなって泣くこともある

 悲しくなって泣くこともあれば嬉しくなって泣くこともあるでしょう。

 そのどちらも素晴らしいことで大切なことだと思って、それは本質的にどのように違うのだろうと思うのだけれどもよく考えたら本当はそこに違いなんてないのかもしれなくって、ただ自然と涙が出て、そこに嬉しくて泣く、悲しくて泣く、感動して泣くだの、都合の良い分類をするのはあくまで便宜的なことであって、自らの感情を言語化して説明することで感情をコントロールできているかのような気持ちになれるということがいちばんの理由であるような気がしてならないのであった。

 

 赤ちゃんはよく泣く。寝ていても泣くし、起きていても泣く。なるほど赤ちゃんは言語を操ることができない。泣くことで意思を表し生命活動を維持しようとするのはたいへん理にかなっているが、彼らもまた次第に歳をとり言語を覚え、感情を表現できるようになると泣く頻度も少なくなり、ついには大人になればほとんど泣くということもなくなる。

 

 しかし、ではなぜ大人になっても涙が出ることがあるのだろうと思う。言語により、感情を表現できるのであれば、涙など必要ないのではないだろうかとも思うのに、その機能は失われることはなくって、人は涙を流し、むせび泣くこともある。大人というのは、感情を言語により表現できる存在だ。しかし不思議なことに、時には自然と涙が出てしまうことがある、そしてその涙に後から理由をつけあれこれ説明をするのだ。言語によって。

ある日突然なにかが訪れてどうにかなる

 何となく急に10代から20代のころ、学生だったころのことを思い出して、やりたいことが無数にあって、エネルギーがありすぎて、しかしどれも中途半端に終わってしまって。でもそんな無責任なところも楽しかったりして。そんなことを急に思い出したりした。

 

 どんなことでもいいので、やりたいこと、大切にしたいこと、守りたいこと。そういうものがあるというのはとても素敵なことであると思うよ。幸いなことに、私にはつねにそのようなものがあるので、恵まれていると思うのである。

 人生って基本的にいつどこで何があるか分からないようにできている運ゲーであり糞ゲーであるけれど、そういった軸になるものがあればある程度楽しめるようにできていると思います。最近気付きました。

 

 いかがでしたか?あなたはどう思いますか?ということではなくって、個人的な話。この世界は、すべて個人的な話によって構成されている。

 

海はすべてを肯定する

海に来た。別に海に来るつもりもなかったのだけれど目的地のすぐ近くに海があったのでついでに海へ寄ったのだった。砂浜のあるタイプの海。岩のゴツゴツした海よりもこっちの方が好きだ、波の音が優しい気がするし、気軽に寝っ転がることだってできる。

海を見ていると安心する。正確に言うと、延々と押し寄せては引いていく波を眺めていると安心するのだ。こんなに大きな規模で、一定の間隔で絶えず波を発生させることはものすごくエネルギーのいることだろう。これがもし、人工によるものであったら、夜間は休止したり、点検のために停止したりだとか、そういうことがたびたびあるのではないだろうかと思うのだけれど、自然界にはそれはない。波が、止まることはないのだ。

目をつぶって、しばらくして開いてもまだ波。その辺に寝っ転がって、時間をおいて眺めても、波。延々と波打つその様には意味なんてないのだろうし、そういう意味のないことを延々と繰り返している、こちらの期待を裏切ることは決してないというところに、絶対的な安心感を覚えるのであった。

そんなことを考えつつ波を眺めていると、ただ波を眺めているのは海に対して失礼なのかもしれないという疑念が湧き上がり、何のためらいもなしに靴下を脱ぎ波を浴びた。それは9月にしては思いの外冷たくなく心地よかった。引き潮に引きずられそうになるあの薄っすらとした恐怖、そのまま立っていると足元がどんどん削られて沈んでいく落ち着かなさ。どれを取っても最高だ。海はいい。この現代において一人の人間に世界の途方もなさを全身で感じさせることのできる極めて最適な手段だ。

 

濡れた足はタオルで拭いてはいけない。何故ならタオルが砂だらけになってしまうから。乾いた砂の上を歩いていたら、足は勝手に乾いてくれる。そして乾いた砂を手でこすって落とせばいい。